『バケモノの子』細田守監督の映画、は、「強くなりたい」と、各地の宗師に強さを求めて修行の旅に出た九太(蓮)
1人目は腕っぷしは強くないが、幻術が使えた。忍者みたいな人だ。
2人目は物を動かす念動力があったが、腰痛を抱えていた。腰をもんでほしいとお願いをしました。
ピオ神父は、人を治した奇跡を起こしたが、予言もしたが、「ピオ神父は修道者。ピオ神父のお体はボロボロだった」と聞いた。
3人目は、達磨大師のごとく不動の石仏。インドのヨガ行者みたいだ。
4人目は世俗的だが、臨機応変で欲望に素直かな。
『バケモノの子』は、善財童子に重なる部分があります。

 『華厳経』の『入法界品(にゅうほっかいぼん)』に善財童子(ぜんざいどうし)の物語があります。
 求道者が様々な出会いを通じて、生きた仏法を学び、悟りを得る物語です。
 初めに大乗仏教で智慧を司る文殊(もんじゅ)菩薩を訪ねた善財童子。
「今、あなたは、教えを求める、心を起こしている。私ひとりではあなたを完全には導けない(必要なすべてを教えることはできない)が、真の悟り、あなたがどう生きてゆくべきなのかを、善知識を訪ねて聞きなさい」こう言われます。答えを与えるのではなく、疑問を抱えたまま旅へと送り出します。
シスターが、「キリスト教のことが分からないのに、洗礼を急いでも、その方はキリスト教のことは何も分からないまま。イエスさまに出会えない。(洗礼によって救われるのかには)修道者も分からない。でも分からないまま、信じていきます。祈ります」と話してくださりました。
善知識とは、「悟りを得るための良き友人」を意味します。
 53人の善知識は、仏法を教え、仏道に導いてくれる人ばかりではありません。僧侶だけではなく、そこには王、船頭、医者、商人、子ども、芸人、遊女、自然を象徴した神々などがいて、それぞれ違う個性をもって、善財童子と出会います。
 善財童子は、その出会いに学びながら、最後、弥勒菩薩や普賢(ふげん)菩薩の教えも受けて、ついに悟りの世界(法界ほっかい)に入ります。
 仏法というものは、職業や身分、年齢や性別などには関係なく、いかなる人からでも学び得るという多様性。出会いは人には作れない。そこに神様のメッセージが届いている。
あなた自身が現実と出会い、世界に触れ、関わることで、体験することで、味わうことで学びなさい。自分の足で歩くプロセス無くして、得られない。
シスターも傾聴、主の祈りが毎日の生活の中に組み込まれ、神様とお話していると言っていました。「修道者」の言葉が良く出てきて、教義、議論に偏りがちな思考がまずは自分を整えることに戻されます。

 この1人ひとりが、多様で複雑な世界の中で咲き誇る様々な華々と言うべき存在です。この華々は、それぞれに個性ある華を咲かせながら、強いに照応(しょうおう)し合い、学び合って、仏法によって輝く世界をつくってゆく。

 

 

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 1人ひとりの存在は、他の存在にとって、欠かせない存在です。お互いが貫入し合い、どちらが主でどちらが従ということもない。
カトリックでは、信徒という言葉が今は使われなく、「使徒職」と表現されています。信徒という言葉は、仏教徒と紛らわしいのと、「使徒職」という言葉を使うことで、ピラミッド型位階、階級を排し、教皇フランシスコから、イエスの心を生きる自覚を促されるようになったみたいです。でも、自分を低くして(ダメな自分をさらけ出して)告解(懺悔)をして笑いをとる関西のクリスチャン、いいのか?そこはプロテスタントを見習おうよ!

「ものみな光る」とは、互いに輝き、その輝きを映し合いながら、さらに輝きを増してゆく世界のことです。
イエスも、名家、ラビ(先生)、宗教エリートだけでなく、羊飼い、漁師、徴税人、病者、盲人、血が止まらない女性、姦通の女、やもめ、日雇い労働者、農夫、商人、反ローマの抵抗運動家と出会われ、中にはイエスに従った人もいました。
イエスとの対話、出会いにより、世界そのものが神の働きに満ちている、理解へ導かれる。
 善財童子の旅と同じく、「出会い=変容」という構造があります。「我と汝」人は関係性の中で変容するという普遍性があります。イエスに出会った人は、神の愛を知りました。仏教では、仏性を見出し、智慧を引き出す。

 遊女は、人々の欲望、執着、感情そのものを否定しない智慧。
遊女は、人々のギラギラした欲望、悲しみ、孤独、大人の世界の複雑さに触れながら生きています。欲望は汚れではなく、人が何を求め、何に傷つき、何に救われるかを知る入口であることを善財童子に示します。
 華厳の世界観では、泥水の中に蓮の花を咲かせる。
文字にすると、なんだか分かったか分からないような、自分に引き寄せて考えることができない。リアリティがない…

 でも、『踊る!さんま御殿‼︎』の番組を見て、城咲仁さんが「他の中華店を見ると気づいてしまうこと」について、
 使われている油で店のレベルが分かる。揚げ油の匂いで、これは2回使った油だなとか。
店内の油煙を見ると、「あ、この店はちゃんとしてる、してない」がすぐ分かる。
 中華鍋の油の回り方、中華鍋を振る音、火の入り方で、「この人はプロだな」「火力が弱いな」 と腕を判断してしまう。
 さんま御殿でのトークではないですが、野菜の切り方にうるさい。
中華は野菜の切り方で火の入り方が変わるため、大きさを揃える、斜め切りと乱切りの使い分けなど、こだわるそうです。

 父親は「営業中に包丁を使うな」という信念で、営業後すぐに翌日の仕込みを始め、翌朝早くから働き続けていた。営業中の事故、混乱を防ぐため、全てを事前に準備する前工程があったそうです。
 飲食店には売上の波があり、どれだけ丁寧に仕込みをしても、休日がほとんどない営業でも売れ残りが出てしまい、食材を捨てるのを見るのが辛かった。仕込みの量と売上の見込みが立たない。

 バブル期には宴会の予約が毎日入るほど繁盛していたが、バブル崩壊後は味が落ちたわけでもないのに客足が遠のいた。景気に左右される飲食業の不安定さ。

 中華料理店に行くと、私はいつも味を「いい」「普通」で判断し、店の雰囲気も重視していました。けれど、城咲仁さんの話を聞いて初めて知った視点もありました。
 善財童子が遊女と出会い、遊女から仏法を教えてもらったという物語も、「清濁併せ飲むというこじつけなのでは?」と思っていました。でも、世界には私の知らない視点や、まだ触れたことのない理解の仕方があるのだと、感じられるようになりました。