ヤスパースは、ドイツ人の実存主義の哲学者です。

 実存主義は、サルトルから始まりました。

 はじめに、「無」について、わたしの見解を述べたいと思いますが、どうでしょうか。

 以下は、旧約聖書のヘブライ語、ヘブライ思想からの考察となります。
 人間は無から創られた、何もないものであるということは、受け入れ難いことであり、確固として自分の独自性を疑わなかった人間にとっては、大きなショックであり、頭で分かったとしても、耳に心地よいものではありません。
 しかし、人間は無から創られたということが、まず創造の法則であります。
 人間は自分一人だけでは自分の存在の根拠がありません。すべて(宇宙、他者、神)との絆を断ち切ってしまえば、かえって、無だけが残ってしまうからです。

 さて、実存主義に話を戻して、
興味のある方は、サルトルの有名な著書『嘔吐』に目を通してみてください。
 わたしはといえば、大学時代に読んだきり、もう、アレルギーを起こしてしまい、もう読みたくはありません。(笑)

 この『嘔吐』に著されたサルトルの主張、「全てが余分なもの」「自分を抹消」をどう読むのか。事実であるか検証したい。
 16世紀から、教会の権威が凋落し、神の存在も引きずり堕ろされ、科学的、機械論的な世界観が完成してゆきます。
 サルトルは、体と大地が切り離された感覚を持つが、科学的に見れば、体を構成しているタンパク質も地球のものです。
 神無き後に、なぜ、永遠を問うのか。なぜなら、永遠の根拠は神にある。自己否定も進めば、永遠の生命の否定に突き当たる。サルトルは、魂の故郷を失い、自己の存在の根拠に彷徨した。

と、わたしは、キリスト教的な考えから、このように詠みました。

 自分の内に対する何とも言えない空虚感や、自分の内側(存在)に対する不信感が渦巻き、人間の精神が信じられなくなってしまった。
 例をあげると、人間は宇宙の片隅を回るささやかな存在でしかなく、人間の無意識は性的な抑圧でしかない。これは、一見、コペルニクスの地動説、フロイトの精神分析から、客観的に見ると正しいかもしれない。
しかし、果たして、それが真実であろうか。
 宇宙と自分の関係を考える時、「自分が存在するために宇宙全体が必要である」という大前提に気づけない。気が遠くなるような宇宙が、均衡を保ちながら運行を続けていること自体が神秘であり、小宇宙である人間の体も驚くべき秩序によって維持されている。意識しなくても呼吸ができるが、呼吸が苦しくなると息をすることがいかに尊く不思議なものであるか感じられる。
 「生かされている」という境地にある人は、在りとし在るもの、生きとし生けるものとの絆、つながりを痛切に感じています。
 人間は自分から存在していません。神によってはじめて存在します。
 しかし、サルトルは、神を認めないから、人間が神から愛されていることが分かりません。生かされている神の愛が分からないから人間の価値も意味も分からない。だから、「人生は無なり」「自分の生きる意味もない」
 神を否定したら、残るのは無だけ、何もない。彼は苦しんだ。人間は誰でも存在したい。本当は愛されて生きていることを認めたかったが、存在させてくださる神を否定してしまったサルトルはどうしようもなかった。

 ここまで、実存主義についての、わたしの考えを述べてきたわけですが、
ヤスパースの話に戻ります。実存主義はサルトルから始まりましたが、ヤスパースの実存主義は、中身空っぽの人間観ではなく、「自己の有限性を自覚した上で、私たちはいかにして生きていくべきかを考える」。
 人生にはいかんともしがたい事が起こります。避けようとしても避けられない試練もそうでしょう。立ちはだかる壁。
 ナポレオンは「余の辞書には『不可能』の文字はなし」と言い放ちましたが、領土を広げるために、拡大、拡大でエジプトまで遠征しました。だが、ロシアを侵略した際、予期せぬ事態、補給路を断たれ、退却の際、冬将軍に苦しめられ、大損害、そして没落の道を進むのである。人間は全知全能、万能でもなんでもありません。思い通りにゆくわけではありません。それが、この世の定め。
 仏教の「心に刃をのせる、耐え忍ばなければならない娑婆」忍土でもある。遺伝子、生まれ育った地も違えば、習慣、受けた教育による知識、思想、価値観など、様々なバックラウンドがあります。この世は違いに満ちています。違いが違和感となります。
 誰もが自分以外の他人の人生を生きることはできません。「自己の有限性」を心のアンカー(錨)、不自由な牢獄とするのではなく、そこから無限の可能性を自らの内に見出して生きていくにはどうしたらよいのでしょうか。
 これは、目の前に高くそびえ立つ壁を前に、ただ為す術もなく立ちすくみ、眺めている旅人のようではなく、限界突破!とはいっても、壁をブルドーザーで壊して、前に進むのではなく、自らが新しく生まれ変わる。壁は真の自分を生み出す。試練があるからこそ、新しい自分が引き出される。

 

著作権フリー

 

 ヤスパースは、奥様がユダヤ人だったため、離婚を勧められますが、それを断ったため、大学の教授の地位を失います。著作も出版禁止となりました。そして、夫婦ともに、アウシュビッツ強制収容所に送られることを覚悟しますが、アメリカ軍が侵攻したため、命を救われます。2つの選択肢のうち、どちらも選ぶことができない。「妻を見捨てるか」かといっても、すべてを失っても妻を助けることはできない、「ナチスに反逆し、自分も妻と運命を共にするか」、ヤスパースは自殺を考えたそうです。一切の希望を失い、生きる気力すら失せたのでしょう。
 強烈な限界状況、絶望を体験したわけです。
 ヤスパースは、この痛みを限界状況、避けることのできない仏教の四苦(生老病死)と呼びました。その苦悩は、心をかき乱す。いかにして、アタラクシア(不動でありながら、自由で軽やかな、幸せを感じる心)に至るのか。それは自分を超えた大いなる存在。
行き止まりになってしまった壁を、うつろな眼で、しっかりと壁を見ているわけでもない、策を考えるのでもない、ただ時間だけが過ぎていく。でも、壁は消えない。呆然とする。挫折です。でも、壁が立ち現れたからこそ、深く生きようとする、本質から入ろうとする。
どうしてもできないこともあるが、力及ばないことがあるが、それでもこうすることもできる。やるだけやって、あとは神のみぞ知る。神様にお任せする。これが「自己の有限性」なのだろうと思います。

 試練の中から、全く新しい心境になった先人たちがいます。
 ユダヤ王国滅亡で、イスラエルの国が無くなり、バビロン捕囚で、囚われの身になり、預言が変わったエレミヤ、エゼキエルがいます。
 神の言葉預かりし者として、虚しくこだますることなく、希望を謳(うた)った新たな契約を預言した。

 要因は、外部にあるのではなく、内側にある。「新たな統治者を打ち立てなければいけない」とは、代わる新たな指導者を指すというより、革(あらた)まる。
新たな自分を、あなたの人生に新たな人生の統治者を生み出しなさい。
 天は、人間の代表者に統治を任せる。その人間が堕落すると天は人を改める。

 君ら(異国の支配者)にとってはガラクタに過ぎないが、宝(タルムード、モーゼの律法、ユダヤ教の要)を携えていたエレミヤらの預言者たち。
 嘆いていたその自分では、預言活動の変曲点は越えられない。屈服していては、未来に希望はない。限界をつくっていた心を転換し、別人のように生まれ変わる。
慣れ親しんだ古い自分から、新たな自分と統治者交代。

 祈りだけで与えられるのではなく、人は、自由意志を持ち、一切の全権を委ねられている。
 精神論だけではなく、それを「見える化」する可視化とは、「直接、掴むことができない、触ることができない要因のことを因子という。因子分析とは、事象を挙げていって、要因ごとに整理していく。」こと。
 要するに、目標があるから、障害が表れる。目標を立てると、それを阻害するものが見えてくる。
 また、様々な出来事、人生の経験によって、状況が変われば、目指すもの(ビジョン)は当初、描いたものと変わってゆくでしょう。
 でも、目標(北極星、進むべき航路の目印)を変えるというのではなくて、そのときの最善のアクションプログラム(行為計画)、最善の方法を目的地、ゴールと呼ぶのです。
 そして、今日一日にも、訪れる出会いにも出来事にも、取り組んでいる仕事にも、抱えている問題にも願い、イデアがあります。あるかないかもわからない答えを探すのではなく、私たちは必ず、存在する解答、神の意思に叶う、本来あるべき姿を探し続け、それに近づこうとするのです。
 だから、向かう道をあきらめてはならない。めざす場所、求める理想は、どんなに遠く困難でも。