オリンピックに出ることは、どう考えても、「できないこと」
 でも、スポーツを楽しむことはできる。速歩やジョギング。
運動部で、「できるのにやらないと監督が怒る」と聞いた。

 わたしは頑張れば、頑張るほど、前職との風土の違いにニヒリズムになったこともあります。
そんなとき、
「人間関係であ〜だ〜こ〜だと言うより、ちゃんと仕事さえしていればいい。オンとオフ」
と、アドバイスをいただきました。

 今、振り返っても、わたしが問題解決しようとしていたことは、パートの立場的にも「本当にできない」ことだった。
 それを指摘されて、自分のコントロール外にあることは、「本当にできないこと」なので、どれだけ悩んでも考えても、何も変わらない、何も解決しない、何も始まらない。

 むしろ、そのことが頭を占めると、脳内の容量(スペック)が、4個だとすると、3個が、職場の人間関係、されて嫌なこと、精神的に疲れることを3個が占めていたら、残りの1個で、日常生活と仕事が割り当てられることになる。
 そうすると、4個のスペックだと、できることがたくさんあるのに、1個のスペックしか使えないと、身体的にも精神的にも疲労し、それさえも手が回らない。
空回り。悩みごとに3個のスペックが占められ、本来やるべきことに力を注げない、エネルギーを収斂できない。

 だが、運動部出身の人と組んでからは、
チームとして監督の考え、自分のやりたいようにやるのではなく、戦略、戦術を理解する、
自分に求められていることを理解する。
ポンジョンには役割がある。自分の役割に求められていることを理解し、最大のパフォーマンスを上げる。
この考え方が似ていて、スピード感など、前職の感覚を取り戻した。
前はぐちゃぐちゃ、ひそひそ、こそこそ、上司の入り込みがなければ、20分以上ぐずぐずと、かかっていたコミュニケーションも行動も早くなった。

 今も、目を合わせると、どんよりと体調が悪くなる。怒りや不満が伝わってくるので、わたしも愚痴をこぼしてしまい、身近な人との関係も悪くなる。わたしをにらんだり、不服そうな顔でほおづえをついている2人はいる。
 だけど、声かけや指示をする運動部出身者に助けられている。運動部出身者が場の空気を変えてくれるので、助かっている。

 自分にできることを集中してやり、自分のできることを増やすことにエネルギーを注げるようになった。

 前職と違い、言いたいことはいっぱいあっても、何を言われてもがまんをし、精神的な疲れが多かった昨年に比べれば、
今は話が通じる人と組んで、やりがいのある、密度の高い仕事をやらせてもらっている。できることの輪が広がった。
他の部署の人も専門性で助けてくれることも増えた。できることが広がっていった。

 

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 美容師をしていたり、医師だったりして、日本でも美容師、医師として働くことを希望しているウクライネ避難民がいらっしゃる。「できるのに何もしない」のではなく、できないのだ。その気持ちに想いを馳せる。
 毎日、はさみを触っていないと勘が鈍る。商売道具のハサミは日本製で修理の時は、日本のメーカーに郵送して直してもらっていたそうです。
これまでのご自分の経歴を話され、「日本でも役に立つと思う」と、1日でも早く「独り立ちしたい、貢献したい」という強い意志を見せた医師。

 ウクライネ避難民はいきさつにかかわらず、日本人と絆を結び、日本での生活を体験したいという気持ちも持ってくれている。出稼ぎに来た人とは違う。
問題のすべてを解決することはできなくても寄り添うことはできるのではないか。

 (こうなったらいいなぁ〜!) 夢を見よう!前に口にしたこと! ウクライネ人、男性も、避難してきた人を迎えに来た夫や父親、ご家族も、日本の温泉や日本の文化に触れる体験をして、心を、身体を癒して、ウクライネに帰ってもらいたい。地下室やシェルターで、恐怖心や命の危険に対峙していたウクライネ人、国を守るために、命の覚悟をして、戦いに赴いたウクライネ軍に、日本で素晴らしい体験をさせてさしあげたい。

 でも、日本に来る金がないだろう。
それに近くの陸続きのヨーロッパの方がいいだろう…
と、思っていたら、きたー!本当に!
しかも日本語が話せるウクライネ人! 口に出してみただけなのに、叶うものだね~!

 それは、叶うわけがない、お金がない、国、官民がやっていることではない、だけど、そこに向かって、現実に道がついた。ウクライネで治療を受けて、そこで良かったのだが、「日本で治療を受けたい」と希望を伝えた。行動する始まりがあり、多くの人の力があり、実現したわけですが、大使館のウクライネ駐日大使も今後もそうなるよう願った。もし、彼が決して叶わないであろう、国外に出ることは禁じられている条件の中、希望を伝えなかったら、このことは現実にならなかった。

 これ以上はどう考えても無理。
◯◯だから出来ない。
難しいから。分からないから。
出来ない理由が羅列されていくと、制限ばかりになってしまう。

 わたしが本当に懸念しているのは、ウクライネ避難民が、本当にそこにある可能性を自分であきらめてしまうのではないかということ。できることがたくさんあるのに、それすらもしなくなるのではないか。

 「本当にできないこと」「できるのにしないこと」それらをしっかりと見極める必要があるだろう。

 ただし、第1志望が難関で、第1志望をあきらめて、確実だとされる第2志望に進むと、
直後は、後悔が少なくても、1年後、10年後に、(あの時、ああしていればなぁ~)と、後悔の度合いが大きくなるらしい。

 逆に、第1志望に挑戦して、失敗し、第2志望に進んだとしたら、直後は後悔が大きくても、
1年後、10年後には後悔が薄れているらしい。
挑戦して、不本意に終わったとしても、やってだめだったら、ショックを受けても、時間が経つと、癒されるのかな。挑戦しなく、不本意な結果に終わって味わう後悔と、挑戦して、失敗して味わう気持ちは違うんだろうな…
 後悔の度合いが大きいか、少ないかによって、その後の人生は全く変わる。
その後の10年後を考えたら、挑戦した方がいいのだけど…