大河ドラマの『鎌倉殿の13人』を、面白く見ている。義経がイケメンに描かれていなく、策略家で頼朝より不細工だった史実には忠実なような気がする。(菅田 将暉さん、ゴメンナサイ) 
 源氏は途絶え、北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされるまで、続くことになるのだが、わたしは、北条氏が執権を握るようになって良かったことに、最後の執権、北条時宗を思い浮かべる。
 1268年に18歳で鎌倉幕府の執権となって、国難に見舞われた。以来、当時、ユーラシア全土を支配していた蒙古(元)の脅威にさらされ続けた。
 時宗は、師、無学祖元(むがくそげん)から、
「幕妄想(まくもうそう)」
と喝破される。
1281年の年初、祖元は、「幕妄想」の三文字を大書して掲げた。その真意を尋ねる時宗に、これから大きな危機、わが国が侵略される、負ければ、高麗のような運命を辿る、に直面するが、ただ、決して妄想することなかれ」と答えた。

 その時、時宗は、危機は去ったのではなく、7年前に暴風雨で撤退した元が再び攻め寄せてくることを確信したそうだ。
 当時の元と日本の国力の差は歴然としていた。しかし、恐るべきなのは、自らの妄想に吞み込まれることである。そう腹を定めた時宗は、ひたすら「幕妄想」の公案を念じつつ、海岸線に防塁の石垣を築くなど、あらゆる対策を講じた。
 「外からやってくる力」に対して、「内から迎え撃つ力」をつくり出すには、
未来から訪れるモノには光も闇もある。限界や制約よりも可能性を引き出し、ベストな形を整えるためには、「本当にできないこと」と「できるのにしないこと」を弁別し、「する」を連ねること。
 しかも、自らの血で経文を書き上げ、まさに「人事を尽くして天命を待つ」心境で一心に祈り続けました。
 目の前の問題や試練に、心が捉えられているとき、私たちの心は、重く沈みがちになる。「いったいどうしたらいいんだろう。とても解決できるとは思えない。…」
そんなときこそ、実現したい状態を心に描くことが大切。自分は本当に何を願っているのか、自分の生き方を変えてでも、何としてでも実現したいことは何なのか。

 

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 もし、私たちが心の底からすっきりと「至るべき道、ゴール」を思い描くことができたなら、問題の解決、試練を乗り越える第1歩は、もうすでに踏み出されたということ。
何か物事を為そうと動き出す時、新たな一歩を踏み出そうとする時、自らが本当に求めていること「その時と場に込める目的や理想の成就、実現」を描くことが、実は何よりも重要。
その「成就」を、単なる想像ではなく、あたかも実在するかのように、ありありと思い描いてみる。そうすることによってのみ、私たちは、目指すべき目的地を確かにすることができる。その目的地に向かう力を内から漲らせることができる。

 その年の5月、再び元がリベンジと言わんばかりに14万という大軍が博多に押し寄せました。しかし、また大きな台風が来て、一夜にして元の大軍は撤退したのです。

 元の大軍は最新の兵器、船を装備していたとはいえ、いわば、寄せ集めの烏合の衆。侵略された高麗(朝鮮半島)の者も混じっていた。恩賞目当てに戦う御家人とはモチベーションが違う。有名な肥後(熊本県)の竹崎季長の名乗りをあげ、先陣をきった第1戦、防塁の石垣の前を闊歩する馬上の第2戦の蒙古襲来絵詞は、恩賞目当てに絵師に描かせたものだと言われている。絵師は、実際に見たか、人から聞いて、描いたと言われている。

 特攻隊で鼓舞された、世界第二次大戦で信じられた「神風はふく」の神風はふかなく、焦土となったわけですが、この蒙古襲来で2回も神風がふいたのは、自らを虚しくして無心に祈った、あらゆる出来る手立てをした時宗の心が暴風雨とつながったのかもしれない。
 モーゼの紅海が2つに割れ、道ができた現象も、モンサンミッシェルの引き潮現象でないかといわれている。

 いかなる苦境にあろうとも、最善の道、日本は侵略されなかった。
 また、第2の国難、黒船の開国を前にし、わが国がまっふたつに割れていたら、「アヘン戦争で英国に敗れた清王朝の二の舞だぞ」と、虎視眈々と利益を狙う海外の勢力に、志士たちが結集し、新しい日本を創ろうと戦い、散っていった。
 そして、維新の富国強兵の歪みからきた第二次世界大戦へ突っ走り、原爆をお見舞いされ、満身創痍の敗戦の第3の国難。植民地になることなく、民主主義、復興への道にスタートをきった。
 この国難に対し、現実は厳しく、確かに過去からの流れも私たちを引き戻そうとする。けれども、時代が動くときは、それ以上に強い確かな流れが生まれていた。

 大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を見ていても、初めは、北条氏の力、坂東武士、源氏の身内の力を借りないと平家の世の中を終わらせることは出来なかった。だが、源頼朝は、担ぎ上げられた神輿に乗った傀儡ではなく、長男の頼家にすべてを継がせる、棟梁は弟たちではなく、頼朝の実子、鎌倉を京の都に負けない武士の拠点とする構想を抱いていた。
 「いざ鎌倉!」は飛鳥、奈良時代から続いた天皇や貴族が中心の治世から、武士の時代へと舵を切った。
 京都の宮廷は美女をたくさん召し抱えていた。朝廷の警備の侍役や公家のお世話を担うとどこかの地域の守の役職に就けたり、女性を下げ渡してもらったりすることがあったそう。無骨な武士には洗練された華やかな京女は魅力的だったんだろう。これも武力を動員できた理由のひとつ。
 過去からの流れも引き戻そうとする。けれども、時代が動くときは、それ以上に強い確かな流れが生まれていたのだ。
 ちなみに、将軍が自前の軍隊を持っていなくとも、求心力があるシステムをつくった。一橋家の後の徳
川慶喜も自前の軍がなく、兵の調達に苦心した。渋沢栄一ら、知識層農民が引き立てられ、幕府、御一新にも関与できた理由でもあった。

 その2年後、わが国を守った時宗は34歳で亡くなります。恩賞の分配に不満を持った御家人により、天皇家(北朝と南朝)の争いにより、鎌倉幕府は、終焉を迎える。