ハンセン病の患者さん、そしてそのご家族への差別を、「ハートネット」で取り上げていた。
あくまでも「その方の価値判断だ」と受け止める。いい、悪いは別として、(ああ~、その方はそういう価値観なんだなぁ~)と。でも、それは差別していいということではありません。

 福祉関係の方から、「ご家族であっても、仕事と同じように眺めなければ、うまくいかない」ってね。
「お父さん、お母さん、おふくろ」ではなく、「70歳の鈴木さん、80歳の山田さん」ってね。介護をしたことはないので、実感で分かるわけではないが、
 仕事なら、冷静にどんなことにでも対応できて、割り切れるのかという話になった時、
夜な夜な出歩く方を、夜の散歩が好きな方を睡眠不足になろうが、なだめすかし、お家に帰らせる。
ご飯を食べていない!と言う大食いの方になんて受け答えするのか。
失せ物が多く、周りの人を泥棒扱いする方にどう接するか。
 かける言葉というものがあり、「慣れれば大丈夫」とのこと。

 その時に、「心を込めてお世話をして差し上げたい方」「お話を聞かせて頂いて考えさせられる方」「自分が引っ越しでいなくなり、悲しんだ方」「がまんさせることなく、出来るだけご希望に応えたい方」のお話になった。
これは、介護の現場だけでなく、自然と人間関係でもそういう風に接しているということが同じだと腑に落ちた。

 話を元に戻して、ハンセン病の患者さんやご家族を差別する方は、突然、
 私は知っているのだが、中学時代は、まったく普通の男の子が大人になって、片方が麻痺状態になったり、
大学時代、演劇部だった男性が、30代頃から聴力低下に悩み、40代で中途失聴者として生き、手話を身につけたりしたこと。
 生まれながらのハンディキャップを背負っている条件より、本人にも戸惑いが多く、周りはどう接していいのか分からなく、「大変だね」と言えば「お前には分かるわけがない。大変なのは見れば分かるから同情なんだろ!」と言うわけにもいかず、明るく振舞っていても、特別扱いをされると、もはや普通の人ではない、その葛藤が多い。
だが、5~10年と時間が経つと、次第に受け入れ、慣れて、感情の起伏が少なくなる。特別扱いされても戸惑っていても会話が不自然でも、相手の気持ちを想像できるようになる。

 はじめは普通の人であっても、突然、差別される側に回ったハンセン病の方に対する心ない言葉を浴びせる人に、わたしは聞きたい。
 もし、門前払いをする人が、自分、自分の家族がその側に回ったら、どうするのか。
自分なら、そういう価値観を持っていたのだから、差別されるに値する境遇に自分がなったのだから、甘んじて受け入れようなのか。

 話は変わるが、福祉関係者との話の中で、大好きな利用者、いい思い出がある利用者、苦手な利用者、難儀する利用者のお話があり、距離感を個別対応で適度な距離感で接していると思われた。
 若い時、周りに心ない言葉、愛のない言葉を吐いていた人が、自分では何もできなくなった時、ずっと自分のやりたいようにやりたいと、「俺が稼いでいる」「ここは俺の家だ。文句あるなら出ていけ」と周りにがまんを強いていた人が、高額のコストをかけなければ生きていけなくなり、しかも生産性がなくなったら、自分では、「怠けるな」「努力こそに価値がある」「寝てばかりいる」と周りがリラックスすることを許さなかった人が、病に倒れ倦怠感で横になっていたら、
周りの人は、その人に思いやりを持って、大切に接することができるのだろうか。
 いや、わたしにはできない。かといって、邪険にするのでもなく、「そういう人もいる」「この人はそういう人」と、適当に接するだけだ。必要最小限のことはする。300円で30分の家事サービスのように、話さないとボケるから、訪問時間が30分しかないから聞き流し、30分以内にやらなければいけないことをやる。こんな感じかな。

 だが、そうでない、愛のある言葉をかけてきた人、働いている時、ストッキングが履きやすいように絡まったのを伸ばしてくれたり、ハンカチにアイロンをかけてくれたり、その姿を見ていたから、病の時、玉子酒、すりおろした大根湿布、一生懸命看病してくれた温かい人なら、どんな愚痴も穏やかに聞いてくれ、昔からの知恵を話してくれた人なら、…心を込めてお世話するだろう。そして、いい思い出しか残らないだろう。

 星稜の山下智茂監督の言葉に、
心が変われば、言葉が変わる
言葉が変われば、行動が変わる
行動が変われば、習慣が変わる
習慣が変われば、人格が変わる
人格が変われば、運命が変わる

 愛のない言葉を吐いているか、愛のある言葉を常にかけているか、周りの人は、「何よ!あの人」と心の中で思い、距離を置いて接するだろう。周りの人が「この人と話せて良かった」と思うか。

 

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 そうはいっても、心理学では、「差別はなくならない」と言っている。
なぜなら、自分を守るため、好悪の感情は、生まれてから少しずつ覚えてきたもので、誰にでもあるからだ。危険を避け、楽な状態を引き寄せようとする、生きていくために必要な感覚であり、それは本能的なものというより、知らず知らずのうちに、人やモノにどんな好悪を向けるかは、既成概念によるもの。

 例えば、あなたは目玉焼きに何をかける派?
ソース派? しょう油派? 塩派? ケチャップ派? その他派?

パートナーと好みが一番分かれ、喧嘩のもととなる火種だろう。
 わたしは、こしょう、もしくは、オリーブオイルとしょう油。
だけど、小さい頃は、しょう油かソースが多かった。自分でかけたというより、母がかけてくれたのをそのまま食べていた。

 

著作権フリー

 

子どもは? お父さん、お母さんは?
それぞれ何を選んだのか?そのマッチング率は、85%という。
子どもは、それを自分の好みでそれを取り入れたのか。
好き嫌い、良い悪い、正しい、間違いの善悪
 お父さん、お母さんの考え方もあるのに、それにもかかわらず、子どもは自分の選択であると思いこんでいる。

 わたしは、大学時代、関西の味にどっぷり浸かり、京野菜のおばんさい風煮こみ、かやくごはんを食べていた舌には、甘辛、お菓子みたいな味つけに戸惑う。特に寿司飯とお稲荷さんとうどんつゆ。和食でも濃いくどい味つけも多い。
母は、京都の大学に行っていたので、すぐに関西風の薄味にしてくれた。
 味覚にしろ、辛いものが苦手な人に「スカッとする」と、強制するのではなく、辛いもの好きなわたしが物足りない味に我慢するのではなく、辛くないのを作って、後で足して辛くする方法もある。

嫌いなのは分かった。苦手なのは分かった。それからどうするかが大事なのではないだろうか。

 辛いのは、嫌悪の感情そのものではなく、
なぜ、嫌悪の気持ちが生じたのか、なかなか分からなく、それをすぐに好きになろうとすることは難しい。
 生まれ育った環境、成育歴、その人がもともともっている性格(個性)、外側から様々な考え方、価値観が心の中に入りこむ。知らない間に入りこんだ考え方、価値観を、自分の考えとしてしまう。それ以外の見方ができない。
例えば、ものの好き嫌いは見かけのようなものであり、中身を味わった上ではないことが多いからだ。
 文化の違いと言えば、そうだが、フィリピンでは臭い魚の漬物を食べ、虫、蛇、犬、カンガルーを食べる国がある。(こんなの食べるモノじゃない‼)の心の叫びはおいといて(笑)

 既成概念とは、暗示みたいなものだ。「こうした方がいいよ」とささやきかける。誘う。それ以外の考え方ができない。それに無自覚に動かされてしまう。

 心が辛いのは、嫌悪の感情そのものではなく、
なぜ、嫌悪の気持ちが生じたのか、なかなか分からなく、嫌いと思った感情を否定しようと、いたずらに正当化することだろう。
どうしたら、いいのか。
それには、まずどのような既成概念、暗示をかけられているかを知ることだ。心にかけられている魔女の魔法、毒針、自分の心でありながら、…その自分の心に奥深く入りこんで、潜入して、誰かの言葉ではない、自分の言葉で心をつかんでいくこと。
なぜなのか、原因が分からない。なぜかわからないけど、大した理由もなくただ好きになれない、嫌なのではなく、
(あ~、こういうことが原因だった)と、腑に落ちるまで、自分の心と対話する。

 「差別だ!」と、声高に叫んでも、いっときの自己満足、高揚感に終わり、あまりにも問題が大きすぎて、どこから手をつけていいか分からない、自分はどうすればいいか分からない、という人もいる。

嫌いなのは分かった。では、その人にどう接するか。
そう問われているのではないか。
そして、それは一人ひとりが問い続ける道でもある。答えは、人の数だけそれぞれある。
自分がどういう人間になりたいのか。自分はどうしたいのか。ただそれだけだ。