プラトンは、この世界に現れたものは、全て「イデア」の投影である、つまり、この世界に現れたものの「原型」は、もう一つの次元、イデアの次元に、そのもともとの姿が存在していて、この世にあるすべてのものは、その原型が形をもって現れたものである。
原型について、プラトンは「天上に存在する理想的な範型」と言っている。
 理詰めで物事を考えるプラトンが、論理を超えて直感してしまってるよ〜!

 

洞窟の比喩は有名。著作権フリー

 

 ソクラテスはプラトンとの問答の中で「探求するとは、知らないことを探すことを言うのではなく、すでに知っていることを思い出すことである」これが想起説です。
想起説は有名だから、知っているだろうね〜☆
 極論すると、「私たちの心はすべてを知っている」

 カウンセリングを見てもわかるが、まず相手を受容します。アドバイス、解決策を言うのではなく、
「見つけていきましょう。そのお手伝いができればと思います。」と、あくまでも、
「大変だったでしょう」「苦しかったでしょう」「優しいから悩まれるのですね」
と、受容、共感をベースにしているんだわ。表面現象、印象でモノを言えないと認識していて、
 本当の奥底、本心に至るまでの作業は、ある意味、辛く時間がかかるからだろう。「時間はかかります」と。
 ところが、占いは、断定する。「右」か「左」か。
ここではその是非は問わない。

 青写真へのアクセスについてですが、
様々な紆余曲折があり、そのプロセスを通して、ある一つの「形」が生まれたら、その後の進展のスピードは加速的に高まる。
 フィギュアスケートのレベルアップを見てもそうだなぁ〜(脱線)(笑)

 11世紀、修道士のエイルマンは、鳥の羽を植えた人工の翼をつけ、高い塔から飛び降りました。必死になって手足を動かしましたが、予想通り墜落して両手足を折る大怪我をしました。(んな、アホな自殺行為だ〜!)と思うでしょう。
エイルマンは「空を飛ぶことはできる」と心底思っていました。しかし、まだまだ具現するには遠く離れていたのです。
 フランスの錠前屋ベニスエも1678年、羽ばたき式を考え、ド・バックヴィルが1742年、セーヌ川を横断しようとするが、墜落し片足を骨折する。(川だったからまだ良かったか~)
 日本の表具屋の浮田幸吉も1785年、岡山城下の旭川の京橋から土手まで和紙の翼で風に乗って舞った。
 琉球王朝の花火師の安里周当も1780年空を飛んだ。が、伝説の域を出ない。

 19世紀、その百年の間に、たくさんの発明が百花繚乱!
1843年、イギリスのジョージ・ケイリー卿はアメリカのロバート・テイラーの発案した回転翼を使ったヘリコプターの模型を作りましたが、それは飛びませんでした。6年後の1849年にも、翼が3枚重なった三葉のグライダーを作り、10歳の少年を乗せた飛行に初めて成功したが、距離は伸びませんでした。
 イギリスのフィリップスは、羽さえあれば飛べるのではないかと考え、1904年に羽が80枚もある板簾(すだれ)の多葉機、飛行機を作ったが、わずかに空中に浮いただけでした。
 ブラジルのサントス=デュモンが考えたのは、尻尾がないガチョウのような飛行機でしたが、これも飛行距離は伸びませんでした。
 日本でも、二宮忠八が玉虫型の飛行器を作りましたが、結果は出ませんでした。

 中には空を飛ぶ鍵は力にあると考えた人もいました。
アメリカのハイラム・マキシムは、1894年に四トンの機体に6mのプロペラ、30mの翼長を持った巨大な飛行機を作ったが、機体が数十センチ浮かんだ直後、地上にたたきつけられ、バラバラに崩壊した。
悪夢だ〜!

 機体のデザインを変え、翼を設計し直し、エンジンを改良する。そうして、わずかに機体が浮き上がり、飛ぶこともできた。
1800年から、1900年の約100年間、何十何百もの飛行機が考案されたにもかかわらず、飛行距離は百mの壁を越えることはできなかった。

 

 

 だが、ですが‼
ライト兄弟のフライヤー号が現れてから、数年で飛行距離は40㎞に達した!
 歴史を塗り替えたのだ〜‼
 「飛ぶ」というはたらきのために、安定して飛ぶための形が見出される必要があった。空中における安定性が問題だった。
ところが、このフライヤー号の形の権能を見た発明家たちがこぞって、瞬く間にそれ以前には考えられなかった飛行機の進化を実現したのだ〜!一気に壁を飛躍的に超えたのだ〜!

 

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 一度に到達することはできなくとも、不断の対話、アクションを通して、少しずつそこに接近していく。PDAC「計画→実行→検証→改善」のサイクルを回すことで、本来あるべき姿に近づく。やってみて、失敗は次につなげる。これが検証。
大事なのは、スモールステップ、少しずつ。

 

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