「明日ありと 思う心の あだ桜
夜半に嵐の 吹かぬものかは」
これは浄土真宗の親鸞上人の歌(「親鸞上人絵詞伝」)です。
「仇桜」とは散りやすい桜の花、儚いもののたとえ。明日もまだ咲いているだろうと思う桜も、夜更けに嵐が来て散ってしまうかもしれない。

 

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 明日はどうなるかわからない。
明日の保障が無いから、明日はどうなっても良いのでは無く、今を精一杯生きることを説かれています。
 自分の周りにも、事故死や突然死で亡くなられる方が大勢おられます。遺されたご家族の方々の悲しみや苦しみもさることながら、ご本人が何も出来ていなかった事に後悔されている事と思います。

「明日はまた来る、必ず陽はまた昇る」
「寝ていても起きていても、何かをしても何もしなくてもどうしていたって、明日はいつもと同じようにやってくる」
しかし、時は流れてゆきます。
一日一日を悔いの無いように生きていきたいものですね!

 テープを聴きながら文字におこした文章が原稿とだいぶ違っていた時があります。
 仏教のお経は如是我聞(にょぜがもん)で始まるものが多いのですが、「我は其(そ)の如く聞きました。」とお釈迦さまの説かれたお教えを耳で聴き暗記したものを数百年を経て書き留められたものが今に伝えられているのです。
 耳で聴いた事を正しく伝える事の難しさを実感しました。今の世の中、テープ、DVDで何十編となく聴き返しても間違うのです。日本語で、です。

 サンスクリット(古代インド語)を中国で漢字で当て字にしたものが多いのですが、
 例えば、「こうしょう」を国語辞典で調べると「交渉」「口上」「考証」「高尚」「口証」と似たような意味や「哄笑」「咬傷」「工商」「鉱床」と17項目も載っています!
 誠の文を目にすることの有り難さに思いを馳せます。

 そうなんだ~!
 まさに考古学、歴史のお勉強と言ってもいい、旧約聖書の講義、旧約はヘブライ語、新約はギリシャ語とヘブライ語、そこから全く別のラテン語で当て字はないが、
モーゼはヘブライ語の「引き上げる」の意味であり、ヘブライ語からの由来が多いかな〜(by わたし)

 平安末期、末法思想が蔓延する。末法とは、釈迦の思想を生きる人がいなくなること。法然は念仏を唱えれば極楽に生きられると説いた。文盲の衆生にはこれが救いだったのでしょう。仏の心の慈悲の姿をわかる形で見せたのでしょうね!
 戦後の日本に、様々な新興宗教が生まれました。戦後は戦前を否定することから始まりました。
宗教はそれぞれの時代の要請に応えてきたのでしょうね!

 自分の好きな良寛さんの「騰騰(とうとう)天真に任す」
すべてのこだわりを捨て、流れる水のように、空の雲のように、ただ自然の道理に身を任せよう。権威、世間体、評価を離れ、自由無碍(じゆうむげ)なる心、無垢なる境地。
 一生かかっても自分には出来ないと思いますが、努力を惜しまず、精進し、自然と場を癒し、仏性を耕し、生きたいものです。

 世界中、あらゆる問題に満ちています。地球環境問題、難民移民、アフリカの貧困、国境問題、紛争、教育の問題、少子高齢化…
今の時代の要請に応えないといけないですね! 世界規模(マクロ)だけでなく、人生には四苦(生老病死)があります。
娑婆(忍土)であり、凡夫(未熟)であり、それでも「人生は甘美なものだ」とお釈迦様はおっしゃられた。
 自分も唯一無二の生、一日を大切に味わい尽くしたいものです。
合掌