「ある人が苦手」
その人が自分を見ている。それが苦痛でたまらない。
その人の視線は第三者でも感じた。
「ああいう顔だから」「ああいう人だから。悪意はないと思うよ」
 その時は「そだね」と、波打っていた、ざわざわとした気持ちは、いったん落ち着いたようだ。
第三者の視点を持つことで視点が変わった。
嫌悪感の「感情」は、「2人の間で」生じた。そこに、「同じ出来事なのに感じていることが違う、違うことを考える」人がいたことで、捉え方が切り替わった。モヤっとする、釈然としない、うんざり感で気分が下がる出来事が、「彼の性格」「意地悪しようとしているわけではない」で、感情の暴走を押しとどめた。

 アドラー心理学の「自分の心は自分で守る」

 自分と他人との間には境界線、自分が心地良くいられるパーソナルスペースがあり、それは人によって違います。
不快に感じたら、身体の向き、表情、仕草に表れます。
快を感じている時も然りです。
 赤ちゃんが不快感を訴えたら、親は慌ててすぐに対処しようとするのに、大人はガマンを強いられることが多い。
 適切な距離感。それがお互いが心地良くいられる方法。
そうなんだけどね〜

 自分の領域に相手の侵入を許している状態を、バウンダリー・オーバーという。

 バウンダリー・オーバーから、自分の心を守る、自分の気持ちが穏やかでいられるには、
「自分軸」と「他人軸」があり、相手に主導権を渡してしまうのではなく、主導権奪回!

 自分の気持ちを適切な言葉で、相手を怒らせないで伝えるアササーション、自他尊重。ただ上手な言葉を言えばいいのではなく、適切な時と場所を選ぶ。
「話す時間を取ってもらいたいんだけど…」
忙しい時、没頭している時は地雷!お茶でも用意すれば、それが合図。美味しい居心地の良いレストランなんか最高の舞台!

 その場を離れる。

 「なぜそうするのか?」理由を相手に尋ねてみる。
原因はあるはずだから。

大学で心理学専攻した人なら、こうアドバイスするでしょう。

 自分を大事にする。自尊心を高める。
 自分なりのストレス解消法を持つ。オンとオフの切り替え。考え過ぎないようにする。

 すべて、もう対処法はやってみた。もう出尽くした。

 このくらいの距離だと、感情の軸が動かされるから辛いけど、椅子2つ分、離れれば平気ということもある。
場所を変えたけど、同行者と一緒でも、苦痛。

 もうその場所に行くのをあきらめるしかない。
自分のやりたいことだけど…

 口角を上げる。はきはきと話す。「不安」「悲しそう」を払拭、虚勢を張ってまで、デパートの売り子さんをひたすらイメトレ、「感じが良く、しっかり、きちんと感」。慇懃無礼は有効打。
余計なことは話さない。メールや連絡事項も精査する。お客様に宛てて書くように丁寧だけど、ビジネスライク。
なんとなくずるずるいったら、ダラダラとその場に居続けない。しばらく抜ける。リフレッシュして戻ってくる。
歩く速度を上げる。思い悩む前に動く。姿勢を良くする。

 これをやった上で、おせっかいに改善の兆しが見えない。
相手もぎこちないながら、調子を合わせようとし、笑わせようとする。が、場を緩めるのが目的ではない。

 次は、
 自分の気持ちを相手にぶつけて、なぜ、他人の動向を気にするのか。理由は何なのか。
真を問いたくなる、ところまで策は尽きたな。最終兵器を撃ちこむ。発射~‼

 調査法といって、他の人の意見も聞くことで、分かることもある。まずはその人に近い人にそれとなく理由を探る。
もしかしたら、そうするだけのその人なりの理由があるのかも知れない。
価値観が違うから。「既成概念」「隠された前提」を明らかにしないと、話し合いの糸口にならないと思ったから。
 本人に曲解して伝わる危険性、人に言えない性格だともごもごと遠回しでオブラートに包み、慰めるだけで、結局理由がはっきり分からない、相手もどうしよか~と悩むこともあるので、人選は大事!

 ストレートに聞いてみた結果、
 責任感、そうしなければいけない。本人はおせっかいだとは思っていない。
何がそんなに嫌なのか分からない。

 残念ながら、相手を思い遣る。重心が相手にあるというより、自分がそうしたい。自分が良かれと思ってやっている。
察する感覚が弱いのか、それとも責任感?諦めない努力家?なのかも知れません。
おそらく、
「人から求められる人になりたい」「他の人に自分の価値を認められたい」「周りの人に求められたい」
であろうと思われます。
なんでも自分に引き寄せようと、引力ばかりを働かせ過ぎている。
本人にしてみれば、押したり引いたり。色々な方法を試しているのだろうけど、
流れをこういうふうに誘導しよう、こういうオチにしよう、と考えている。
 自然発生的に会話が生まれ、どこへ転がって行くか分からない、キャッチボールではなくて。

 これ以上、言ったら、「見なきゃいいのか!」と怒り出し、論点がズレてしまいます。

 自分の不快な感情をそのままぶつけ、相手を糾弾し、「こうして欲しい!」と要求するのではなく、

「どこが悪かったのかな?」
「変なふうにとられることを言ったかしら」
「心配をかけるようなことあったのかな?」
「私は大丈夫だから」
「手間を取らせてしまって本当に申し訳ない」
「心配をかけて本当に申し訳なく心から思っている。だけど、本当にもう大丈夫だから」
をきちんと相手に伝え、相手は笑顔を見せてくれました。
「何を言ってるか分からないけど、まあ落ち着いて」

 心理学の知識や策は出尽くした。
 外部環境や相手を変えることは出来ないのだから、その場所に行かなければいい。
どうしても行きたければ、集中すべきことに集中する。

 ふと、(アドバイスするだけでは、スッキリ感、納得感がないのかな、)と感じ、

 もう少し聞いてみることに、

 そして、分かったこと。

 今までは、自分のことをよく見てくれていると思ってた。
自分の知らない自分、自分では気がつかないことを指摘してくれているんだと思って聞いていた。
もう食傷気味。

 耳に痛いことだから、嫌になったということではなさそう。
図星だから、受け入れがたく、怒っているのでもない。
なぜ自分にこういうことを言うのかをまず自分で考えてみる。それでも分からないから、思い当たらないから、周りの人にも聞いてみたそうです。

初めから、相手の良いところを見ようとしていたこと。
「教えてもらえる」と捉え、耳を傾けていたこと。
依存心、他人任せ、自分で決められないのではなく、「せっかくだから拝聴しよう!」といい方に考えていたこと。
始めから、聞かれても全部は言わず、距離を置いていたこと。そもそも親しくはなかった。必然のある時しか話しかけなかった。

「信頼関係があってこそ。信頼関係がないのに、良いことでも相手のためでも、何をやってもだめ」
「人は分からないものだから、全部を知って言っているのではなく、一部だけを見て、言ってるんだから」
「相手の言うことがすべて正しいわけではないよ」
と言いましたが、

 今は話をしていないにもかかわらず、じっと見られる。気にかけられる。
それがものすごく嫌になったのには、
相性。そりが合わない。もありますよね。

 ところが、この一言で、
 自分の性格がこうだから、こうなった的なことばかり言われて、
自信がない。だけど、「こんな自分はだめだ」「自分なんて」の自分を隠している。
相手も立派な参考にしたい人ではないのに、自分は人のことを言わないのに、そこまで言われて、
の言葉に、

 

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 緊張してリラックスできない。「過剰適応」なのかと思いきや、「間違った観念」を植えつけられているようだ。
支配的な、「一体感願望」が強い人の前では、ありのままの自分、自然体の自分ではいられない。
だけど、「大人の対応」は大事。

 だが~! 思わず、
 ドラマの『集団左遷』の福山雅治でさえ、こういう目に遭う。嫌みなやつでもなく、爽やか、仕事は一生懸命、やれることはやろうとする。ずるく、逃げるのではなく、向かい合う。それなのに、理不尽な要求を突きつけられる。災厄が次々に降りかかる。
こういう性格だから、こういうことが起こり、それを直せば、こうならないのではない!

 ユダヤ人のアウシュビッツを体験した精神科医のフランクフルの『夜と霧』に、

「あらゆるものを奪われた人間に残された、たった一つのもの、それは与えられた運命に対して自分の態度を選ぶ自由、自分のあり方を決める自由である。」

「もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって正しい答えは出される」

 何度か耳にした、知識として知っているお言葉だが、
今、そうであったとしても、この性格だからと、性格や過去に原因を求め、すべてがそこに起因するのではなく、
それに対して、どのように考えるのか、それは自分に委ねられている。どのような状況に置かれていてもそれをどのように捉えるのか、捉え方なのだ!
と力説してしまった!
『夜と霧』は重い内容で軽くサクッとは読めなかったが、
インスピレーションのように、このお言葉が胸にストンと落ちてきた。

 心理学の知識が出尽くし、手詰まり感に、

 思いきり、
この性格だから、こうなる。だから本人が全部悪い。自分が招いた。そもそも向いてない。
上手にやっている人もいる。この性格を直さない限り、あんたには無理、また同じことが起きる。
なんてふざけんな〜!
福山雅治だって、『集団左遷』のドラマで難題を突きつけられているではないか~!
試練は、性格関係なく誰もが直面する!
ユダヤ人という理由だけでアウシュビッツで医師、精神分析医としてではなく、収容者として過酷な運命に晒された。
この意味を問うたら、ヒトラーが全面的に悪い!
だけどさ、それをどう捉えるかだ。捉え方だ。それは人それぞれの胸の中から出てくるものだ。

 難解な重い内容の本が熱を帯びて、力説してしまった!

この性格、このやり方だから天罰が下った、なんてふざけるな〜!処世術だからダメージを受けなかったなんて、関係ない。
人が決める、人がコメントするのではなく、自分が自分に問うて決めるのだ。問う、思惟する時間、空間が必要なのだ!

それぞれの旅路なのだ〜!
それでも、この性格だから、と人を批評する人はどこにでもいるだろう。
自分がどう在るかだけだ〜!

 彼女は、タジタジとなってしまったかも?
かみ砕くようにではなく、専門的な内容をぶつけたから。
 それに『夜と霧』を読んだ人でないと、分からない内容ではないか〜!
暴走したのはこっちだ~(笑)

 

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