本当にいろいろな意見があるね!
 軽く、ぽっと言っただけなのかもしれないし、
 経験を踏まえて、重みを持って、発信することもある。
 身近な人さえにも、真意が伝わらないこともある。

 メールやラインは、顔が見えないから、「ひとこと」に、問いただしたい気持ちになったり、「ひとこと」をあれこれ重く受け止めてしまうこともあるかも知れない。
 飛んで来たボールをただ打ち返すだけの、宿にある卓球場で、温泉に入ったついでの、のんびりほんわかラリーもあれば、
部活やサークルの卓球だと、白熱する真剣勝負もあるよね。
「こうきたらこう打ち返す」と教わって、卓球が上達したとしても、
温泉に入った後は、ただ飛んできた来たボールを打ち返すだけでもいい、ガチで来られたら逃げ出すっしょ!

 距離感と温度差だね。

 世相を「静」と「動」のリズムから見ると、縮み志向もあるが、試行錯誤した、平成も終わりを迎える。
明治から眺めると、鎖国から開国へと、上から下へと揺れる国難にあって、御一新と舶来物、新しいものがたくさん入ってきた。侍がざんぎり頭になり、山高帽、大正はハイカラさん、浪漫が花開いた。
 お年寄りの話を「古い!」と言わずに耳を傾けると、まさに歴史の生き証人、
 昭和は戦中の軍国主義、敗戦の焦土と、一夜にして価値観がひっくり返った、企業戦士のいけいけ経済成長の明暗がくっきり。
平成は、災害が多く、市場の幻想の泡がはじけて経済は停滞したが、絆に目が向けられたのかな。

 新しいことを始めるにあたって、

何を実現したいのか?


 周りから色々な意見があるだろう。耳を傾けて、精査して、協力していただく、味方になってもらう人を探す。
北極星を目印に航海しないと難破してしまうから、情報の洪水の中では、北極星を見失わない羅針盤は必要だね!

行動してるけど、現実からの要請は何か?

 わたしはマーケティングをしていたこともあり、ある程度は分析的かな。言葉を変えれば、「理想の本来あるべき場」「目標」「理想の自分」は設定はするけど、同時に、準備をするんだ。調査し、比較、立ち位置、下見、そして、自分の強み、弱みなど、「本来の自分」も。

 「無理」「難しい」という批評家の意見もまず聞く。けど、最終的には、背中を押してくれる行動家に相談する。
可能性と制約、両方見るかな。

 短期的スパン、狭い範囲での目標なら、これぐらいのことでいいだろう。

 でも、大きなことを判断する時、
 現状を見て、(無理) (仕方がない)ではなく、
歴史を俯瞰して、まだ見ぬ未来から眺めた視点での発想、設計図として何を描きたいのか?

 

著作権フリー

 

「虫の目」でミクロを見る(細々とした作業、些細な変化、地に足をつけた考え方は女性の方が得意分野)、
「鳥の目」でマクロを見る(総合的な判断、取捨選択、優先順位)、
「魚の目」で時流を読む、長い目で見る。大局的、長期スパンで考える。ヴィジョンを描く。時代に合った感覚、アンテナを張る。
「こうもりの目」、逆の立場で見る、別の視点で見てみる。発想を飛ばす。

 それによって、人類は進歩してきた。
 チンパンジーは人間に近い知能を持つ、だけど、人間には追いつけない致命的な欠点がある。
それは決して本能的、猿に近いからではない。閉ざされた集団だからだ。
ある種類のチンパンジーはシロアリを食べます。それは親子代々継承されてきた。教えれば学習能力はあるだろう。だけど、別の種類のチンパンジーはクロアリを食べます。だが、決してこの2つのグループは交わることはない。クロアリを食べるチンパンジーがシロアリを食べるチンパンジーと出会っても、シロアリを食べるようにはならない。閉ざされた関係性なのだから、文化の発展は非常に緩やかなのである。
 ただ、例外が1つあって、適応性の視点から考えれば、クロアリがいなくなれば、もしかしたらシロアリを食べるチンパンジーの習性を真似て取り入れるかもしれない。だが、それは「クロアリ+シロアリ」ではない。「クロアリ→シロアリ」なのだ。
 人間は、先人から学ぶ、異質を取り入れ、新たなものを創り出す。

 『北斗の拳』の「こんな時代でも、哀しみだけではない。あのような男たちがいるのです」
のように、心には志ぐらいは高く持ちたいものだ。

何を実現したいのか?
現実からの要請は何か?
今の時代、未来は何を求めているのか?

 この視点で考えると、「枝葉」ばかりを論じるのではなく、「根っこ」を論じないといけない。

 枝や葉っぱばかりを取り上げて、枝や葉っぱだけ見てケンカよりも、根っこを見る。
根っこが相容れない時、

 店長によっては、単なる労働力、効率的に配置することばかりを考えてはいるだろうけど、パソコンだけを見て、会話がない、不足は他の店からかき集めるが、交流はない。時間管理はしっかりしているが、非情なシステマチックな人もいたし、
 大所帯だと隅に追いやられるであろう人も、こまめに声をかけ、「一緒に働く仲間」「どこの店に行っても人に恵まれているんです!」「感謝です!」と皆と一緒に長くいて、会話もたくさんし、「人の嫌がることはするな!」「相手のことを考えるのも大事です」と厳しく、付帯作業は朝早くか、営業を終えた後に事務所でやる現場監督みたいな店長もいた。働き方改革より自発的に、みんな、パートでもシフト変更も休日変更も快く協力していた。

 店の雰囲気は全く違っていた。

 だからかな、なんとなく、入管法の改正で労働力の増加としか捉えられない人と、
 イスラム教徒への理解など、相手の文化に敬意を払い、配慮している大学や企業があると聞いている。
アジアや日本、世界の未来を考えて、インターシップなど共に歩む仲間になってもらおうと交流しようとするのと、
 日本が少子化だから外国人にやってもらわないといけない、と考えるのであれば、バイトに正社員と同じ仕事をさせ使い捨てにしていた、飲食店やコンビニは今、人材確保が難しくなっている。
反日の集団を内に抱える火種となるのか。あるパートは大企業の方が正社員の監視が緩ければ気楽に働ける、と会社の方針、目標に無関心であった。
 正社員も正社員だからパートさんにしたてに出たり、お菓子を配ったり、モチベーション管理に気を遣っていた。頼む時も「強制ではない」と念押ししていた。

 そんなめんどうくさい、やりにくさのストレスだらけでなく、気持ちよく働けた時は、やっぱり、わたしたちひとり一人の関わり方だった。

 店長の感性が店を作る。
これをかみしめている。
 株価も人々の気持ち、その場に満ちている気分や感情によって乱高下だという、「ツィーターのつぶやきと株の値動き」には相関関係が見られた。