「真田丸」、大阪城入城から、いいところなのに~!
 後藤又兵衛を、毎回、凝視。
 「後藤又兵衛は、バカではない!」と、モヤモヤを抱えつつ( ̄3 ̄)
 脚本家(三谷幸喜)が、どういう後藤又兵衛を描きたいか? 真田幸村が主人公なので大坂五人衆の中でどういう位置づけか?なのかは、もっともだが、
後藤又兵衛の出場を楽しみにしていただけあって、戦上手で、勇敢で…一目置かれ、大活躍のイメージ。
 だが、実際は、サクサクいかなく、苦難の連続だった後藤又兵衛の人生。三谷幸喜の描く後藤又兵衛は泥臭すぎる~∑(゚Д゚)から、実像に近いのか~?

 「時代を読む」ということで、
「大坂五人衆は英雄ではない」という意見。
いくら、後藤又兵衛が、槍の名手でも、軍略に優れようが、もう真田丸がない。堀を埋められたら、敗戦濃厚だ。

 時流を読んでいたのは、真田信之(徳川についた、幸村の兄)、江(ごう)。真田幸村が、徳川家康の首をとろうが、後継者の徳川秀忠がいる。
 織田信長、豊臣秀吉の時とは違って、スムーズに、次世代へ移行した。世は乱れなかった。
真田昌幸(幸村の父)は、武田の領地を取り戻すべく、時代の変わり目に、乱世を望んでいたが、
ま〜、幸村は、「日の本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と、後世伝えられているが、せめての最後の悪あがきだったのだろう。
(最後の悪あがきとは、く~、許さん!!)(泣)(╥﹏╥)

 古文書の、豊臣秀頼の母、淀殿(淀君)のカルテに「御気欝」とあり「快気湯」という薬を処方したと書いかれている。
淀殿はうつ病だった!

 天下分け目の大坂冬の陣、うつの状態で、女性の身で、大阪城を徳川軍に包囲されて戦わないといけなくなった。
家康は大砲を撃ちこみ、追いつめる神経戦に出た。
気が弱っていた淀殿は、
「大阪城の堀を埋めるなら大砲をやめる」
という徳川の調略(講和)にのってしまった。
大阪城の堀が埋められていき真田幸村も討ち死。そして、落城。

 淀殿が、うつ病でなかったら、大砲を鳴らされても、(冬の陣中で、家康は寒いだろう)と、余裕で、もっと粘れば、家康が病死する2年後まで、大阪城がもちこたえられば、日本史が決定的に変わっていた可能性もあると。
真田幸村が死ぬこともなく、大河ドラマ「真田丸」もなかったわけです。

と、古文書を新聞のように読む、林修さんも一目置く、磯田道史さんが、おっしゃられたが、
 わたしは、徳川秀忠の存在。豊臣家を根絶やしにしようとしたのは、徳川秀忠。娘の千姫が豊臣秀頼の正室といっても、秀頼がいる限り、牢人は集まる。謀反の芽は徹底的に摘まないと、幕府の安定は成り立たない。
大名に金を出させる&人質の参勤交代、ぼんくらでも、長男が家督を継ぐ、などの仕組み、幕府が長く続く基礎を作ったのは、徳川秀忠と徳川家光。

 海山千山の家康の方がうわてだった。「淀君が、うつでなければ、判断を誤らなく、歴史が変わっていた」という視点。

 

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 大坂五人衆(真田幸村、後藤又兵衛、毛利勝永、長宗我部盛親、明石全登)、彼らは、何を想い、前方に何を見据えていたのか?

動かし難い壁に覆われた希望の薄い現実にあって、

「もう絶対に無理」と思っていることでも、まだ挑戦できることはあります。
できることのすべてをやり尽くしてあとは天に任せる。やるだけやって、後は托身。
結果を恐れるより、最善を尽くせないことの方を恐れるべきではないでしょうか。

「どんなに真面目に努力したって、結果が出なければダメ」
「時代に乗り遅れる奴は所詮、それだけのものさ」

 目を向けるべきなのは根本的なこと。表面的なことだけではなく、物事の「奥」を探ってみる。
実際、心が大事なんて、きれいごとだ。結局は、お金、能力、立場さえあれば、と思い知った経験を持っている。
最初からそうだったのでしょうか。
それとは相反する、思いや心が大切。思いやりも必要。結果よりプロセス。縁の下の力持ち。見えない努力。人への信頼。かつて、それを重んじてきた。
人生経験を経る中、「見えないものを大切にする」ことを放棄し、明らかな実績を求めるようになる。