知ってた?
シスターは化粧しないんだよ!
松岡圭佑さんの『万能鑑定士Qの推理劇III』で、偽のシスターを見破る根拠は、真っ赤なルージュだった。
本の題名、合ってるか、わからないよ〜(T . T)
 お坊さんは、いろいろな宗派があり、仏教はお寺も、借りている在家みたいなものだから、坊主頭にしなくてもいいなど、ゆるいところもあるのかな〜

 東京、名古屋、岡山と駆け回るシスター。教授でもある(カトリック学会では知られているが、クリスチャンはあまり知らないと思う)
 クリスチャンが、ひそひそ、「ファンデ、塗ってる…口紅も…」
うー(T . T)、テレビとかではない。講演とかではない。肩がすれ違うような至近距離だから、わかるのか~?

 スペイン人のシスターは、常に石けんの香りをさせていて、穏やかで、人気があった。遠くからでも、淡いフローラルと石けんの香りがした。
「出身地がガリシアだからね〜 北の方。洗練されていて、肌も白い」スペイン人でも北と南では気質が違う。
ケンミンSHOWではないが、こじつけではないだろうか…
プチサンボンの香水のテスターの前で一瞬かたまった。(シスターって、私的財産は持てないんではないの?)
幸いなことに、プチサンボンの件、香水疑惑は誰にもバラしてないよ(>_<)

 「あの若いシスター(名前呼び捨て!)、車の免許とって、大学にも来て、おかずいっぱいのお弁当持ってきて、(学生は菓子パン、学生食堂のラーメン、カレー、うどん)何かの習い事(絵を描く? 童話を描くんだったっけ?)もして…」えんえんと、シスターとして、許されまい生活‼のお話が続く。
(だったら、出るところに訴えればいいだろ!)(どこから、そういう情報を得るんだ~?)
化粧してなかったが、男子学生とよく話していた、明るい人だったから、やり玉にあげられたんだ~
 大人しく、控えめで、あまりしゃべらない若いシスターは、たたきようがなかったんだろう。うわさでは、習い事もし、自分で運転し車通学(マイカーではないだろう? 修道院所有だろう)
(注)学生は女の子でも自分のことに忙しく、シスター批評は一切しない。
神父に憧れてじゃれつくことはしたが、カワイイもんだ(*´︶`*)

 (シスター叩き、何回も毎回うるさい~!) ランチ巡りをし、既婚でお子さんも大きく、面倒見がよかったが…
次第に疎遠になっていった。再び学生の身分に対し、ご家族の理解や協力の話題へと振ってみたが、反応はかんばしくなかった。

 話を元に戻して、
ファンデを塗っていたのは、アレルギーとか、人に不快な思いをさせないよう、理由があったのかもしれない。紅もささないと、血色がなくて、ロウ人形みたいだからかな〜
本人の耳に入ったのでしょう。
「お友達の目もとのカラスの足を数えるのはいやしいものですよ」
に、みんな、シーンとなり、もう話題にする人はいなくなった。

 「隠れキリシタン」を主に専門に扱っており、タオル持参で、号泣。唯一、ノートをとらなかった授業だ。美化しなかったから、リアリティがあった。
トラウマで、家に持って帰れなく、ノートを教室に置いてきた。
だが、そのシスターが、来た時は、囲んで、みんなで、お昼を教室で食べたのである。
授業をとってなくても、誘いあって、
あんな、むごい授業の後に、ケロッと、笑いあって、

 ことの顛末を思い出さないようにしていたんだろうか。受け止めきれなかったのか…
「起こることは、すべて、大切なことである」 頭ではわかっていても、(もう限界!)

 タオル持参で、涙をふく。レポートは当然書かない、というか、ノートもないので書けない。「いいですよ」の優しい言葉に、単位はとれないのか覚悟していたら、授業 & 囲んでのお昼ごはんに参加していたから、だったのか、セーフ!
トラウマで、みんなのところにいかないと、気分転換できなかったのだ。

 フランス語の課題で、ジャンヌ・ダルクの裁判のところを原書で読んだ。
“Mon dieu me guide.” (モン ディウ メ ギッド)神が導きくださる。
美しいフランス語だが…

カトリックの書籍にあると思うが、
『うんこを漏らしたズボンを脱いで逃げた修道者』『歯ぎしりが聞こえるかのような、火あぶりにされる直前の手記』
もう、たまらない(>_<) 涙、涙…

十字架を胸に抱き、天を仰いで、地上と訣別したジャンヌ・ダルクとは大違いだ~

 今は、殺されることがない時代だからね~

 神父さまは神妙な顔で、隠れキリシタン、殉教者のことを述べ、祈りを捧げましょう!で、締めくくるが…
ファンデ塗ってたシスターは、詳細に話して、その後、皆でお昼。他学部の学生、他の講義を終えた人たちが集まる。もう引きずらない。

 納得がいかなく、個人的に話をしたら、
今も、現実に痛みは起こっている。共感を正しく生かすこと。自分のことだけでいっぱいではなく、いろいろなことを知ること。無名の人々の悲しさを抱きしめること。

 長崎の二十六聖人、最後まで説法していたパウロ三木(有名)は、列聖され、…、皆に知られることになったが…、セバスチャン、初の日本人司祭の潜んでいた小屋が残っているんだってね… 夕餉の煙で捕らえられたなんて、拷問に3年間生き続け、処刑された。生きながらの地獄だ。それなのに、「魂は絶対に救われますってなんだよ!?」って、つかみかかったこともある。この世ではなく、天国において、神のもとに信仰さえ持てば、…
 わたしは、非常に個人的な意見だけど、「生きる」ってことを大切に考え、犬死、無駄死はしない。だってよ、信念を貫いて、死んでも幕府の役人が改宗するわけないじゃん。痛くもかゆくもなく、仕事の一環として死に追いやるだけじゃん。そして、のうのうと生きてやがる。権力者に対する訳も分からぬ反発が抑えきれなかった。個人の幸福、この世的な幸せをあきらめて、天国で幸せになるために信仰を貫くの?に、

 人格的に尊敬する神父が、「優しくて、感受性が鋭い。ナーバスにならないでください。主は泣いています」と前置きしたうえで、「(あの殉教は)信仰を刻印するため」「(列聖されるためではなく)彼らのマインド」と英語と日本語でおっしゃられた。
そうか、信仰を刻印するために…、信仰って何?死ぬこと?と再び聞いたら、
「彼(当事者)しか分かりません。神父も完全には分かりません。殉教したことがないからです。私には殉教はできません」

 

ルイス・デ・モラレス 聖母子 著作権フリー

 

 名もなきの…記録に残っているだけでも…その想いをわかってあげることかな〜哀しさ、苦しさ、辛さ、残っている記録だけでも…まだ、想いは強くそこに残っているのだろう…
理不尽だけど、目を背けてはならない。
「イエスさまは、踏み絵をそ~っと普通に踏んで、おうちに帰って、奥の方で思う存分祈りなさいって、おっしゃられると思う。生きることの方が大事だから」
に、シスターは、「突然命が断たれた人は大勢、今もいますよ」と言った。

 中国の四川の震災で、ご遺体に自衛隊が黙とう、敬礼したのが、現地の人にとっては、衝撃だったらしい。唯物主義だものな。
感動美談だけでなく、救出に向かった自衛隊の不完全燃焼の悔しさや、今後の課題もあったことも、忘れてはならない。
 救助犬レイラの調教師さんが、目撃した3・11の現場と重なるな~
災害の救助の現場に対しての問題意識。誠実に向き合おうとしている人がいる。

 もともと、日本人が持っていた感性、
「おくりびと」が、海外でも、高い評価をされた。
 3・11の東北の市井の人たちの映像が海外に流れ、「キリストのようだ」と称賛された。
古来から日本人が、もともと持っていたもので、映像に映った被災した東北の方々は、キリスト教も聖書も全く読んだことがない人だろう。
日本人がもともと持っていて、当たり前のことが、海外では称賛され、再評価となった。