「開径待佳賓」
(みちをひらいて ひらきて かひんをまつ)
山奥の庵にお客様が訪れる予定がある。そこで庵主は不便な道中、遠路はるばる足を運びいただくお客様のために、足元の安全のため、枝木を拾ったり、丸木橋を見に行ったり、細やかに気を配り、おもてなしの準備に余念がありません。
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本年も僧侶から年賀状をいただきました!
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。その後もお変わりなく元気にお過ごしのことでしょうね。
「開径」は道を切り開くことであるが、ここでは「佳賓」待ちかねた良き客のために道を整える意味です。
良き客を迎えるために細やかな心配りで準備をする、準備が整い、晴れやかな気持ちで、ようこその心でお迎えすることだけではなく、
また、こころを開かなければ、良きことは訪れぬ、良い出会いにはならないということです。
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その「心を開かなければ、良きことは訪れない」の解釈は自己開示、説得力アップというよりも、
相手の方が建前や露悪的な感情的な本音ではなく、心を開き、本心で語られる、心の重荷を降ろすことができるご縁になりたいと、僧侶は書いていました。
そのためには、相手の気持ちを察する共感力、相手の話を適切に把握する理解力、相手の気持ちを引き出すための適切な問いかけ、聴かせていただく時の立ち振る舞い、所作、心が癒されるような楽しい場を生み出すユーモアのセンス、…etc
を育み、関われるようになりたいものです。
ご健康とご多幸をお祈り致します。合掌
令和七年元旦
と結ばれていました。
「準備された心に幸運は来る」という言葉を頂いたことがあります。あらゆる手を打っても、空回りしていた時に。だからこそ、響きました。問題解決型の思考とは、別に、「正解のない問題」というものがあります。
規範となる、モデルとしてのふるまいを身につけることは、「倣うことである」と、日本古来から続く「道」がつく伝統文化、武道、剣道、弓道、柔道、合気道、書道、華道、茶道…。
実際にそのようにできるかどうかはおいて、まずは形から入る、型を反復する。いつかは和の心、礼儀作法、「道」を体得するんだという想いでお稽古に励まないと、精神性は身に付かない。
格付けでGACKTさんが、お能について、見極めるポイントについては「足を運ぶ時に、頭の位置、高さが一切変わらずに動き続けるっていうのは、本当に難しいことで。あれだけテンポが遅いものを表現できるっていうのは…」。日本ハム監督の新庄剛志さんは足の運びに着目した。
太極拳も、文楽も頭の位置が同じ。柔道ではすり足をする。
何かの罰ゲームかと思うくらい、体幹がしっかりしていないとスローな動きほど辛い。
なぜ鍛錬するのかというと、「開径待佳賓」(みちをひらいて かひんをまつ)の禅語によると、備える。予定されている未来はイベント、仕事の締め切り、プレゼンテーション、試験…etc.。
いつ来るか分からない、でも主は来ませリ、果報は寝て待てではなく、神の意に沿えば、そのように取り計らってくださる。まさに準備された心に幸運は来る、ですよね。
キリスト教では、良き知らせを地の果てまでに、イエスの宣教の前に、道ならしをした洗礼者ヨハネがこれにあたります。
イエスはナザレの大工の息子。ヨハネは名門の祭司の出身であった。だが、ヨハネは努めて謙虚であろうとされた。
改革派の影響で荒れ野に出たヨハネ。メシアの出現、天の国が近いことを預言し、備えよと呼びかけた。「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ』」(イザヤ40・3)
ヨハネは人間関係に執着しないようにしていた。エゴも抑え、感情も自分のこととなるとこらえた。厳しく、性格は激しかったが、自制心は強かったと言えます。むしろ、ヨハネには話が分かるだけの分別があり、賢かったのです。イエスさまに任せられました。
いつも別れを意識し、散っていく美学もモーゼ、エリアと同じように持ち合わせていました。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」(ヨハ3,30)
ヨハネのもとに集う人は悔い改めの洗礼を受け、道徳的正義がありました。その中にとどまるのは、ある意味で安全であろう。
しかし、人々が生きている世界には煩悩の渦が渦巻いている。それに触れれば、煩悩も疼いてくる。肉体と魂が葛藤し、身動きがとれなくなるかもしれない。
そこに赴いて、福音を宣べ伝えたり、苦しんでいる人を救うということは大変難しい。でも、そこが人々の生きている世界、現実なのだ。あえて伝道者は、清流にではなく濁流に身をおくのだ。翼が折れても人を救うのが天使である。
本年もどうぞよろしくお願い致します。
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