実際に身近にお話をお聞きした。妻はカトリックのクリスチャン。
いろいろな具体的な事例をお聞きした。帰宅時間、車の走行メーター、シートの位置、服装の趣味の変化、化粧、夕ご飯を作らない、ご飯を勤め先で買ってくる、子どもだけで夕ご飯を食べている…
領収書、クレジット明細、携帯チエックに、「夫婦でもやってはいけないことがある」「そういうことは私はやらない」と。
子供が、母親を求めていること、休みの日は夫が一人で子供を連れ出し、いろいろな体験をさせていることから、人としての責任感を果たす。
「奥様を問いつめない、不問」にする結論を出した。
奥様に体が不自由な姉妹がいて、妻のご両親に妻のことをよろしくお願いと、頭を下げられた。身内に障がいをお持ちの方(車椅子)がいて、なかなか縁談が決まらなかった。ご両親が面倒を見ているが、いずれは自分が障がいをお持ちの妻の身内の面倒を見ないといけないと思っていた。
奥さまのご両親に頭をすごく下げられたので、と言う夫に、奥様のご両親に相談することを提案したら、「(妻のことを)頼まれたのは自分ですから」と。
自分も神学を学んだ者として、人を悲しませ、苦しませることはしたくないな。自分の良心なのかなぁ~
ご主人は、先祖代々浄土真宗。カトリックは、わからない。だから、わたしに意見を求めたのだと思う。だが、カトリックがど~のこ~の、教義の問題じゃなくて、それ以前のその人個人の問題だ~‼
あっ、いかん!熱くなってしまった!
「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」(マタイ5-5 山上の垂訓)
一方側からのお話で、もう一方側の奥様からのお話もお聞きしていないのですが、人には、それぞれ事情があるのでしょうね。
さて、ここからは神学科と神父は一切関与していない、わたしなりのホセアの赦しの物語を紡ぐことにします。
「カトリックのクリスチャンの奥様も人間。人間だから」
こう、ご主人に言えたら、どんなにか良かっただろう。でも、ご主人の決断、気持ちを受けとめるしかなかった。
「わたしは自分がそういうことはしないと思うので、奥さまの気持ちは完全には分かりきれない。カトリックの教義は知っていますが、現実は教義通りに生きることが難しい。それに対して、教会がどういう判断を下すかは、奥さまの悔恨、やり直す意志とアクション(誠意を見せること)だと思うのですが。…」
「そもそも奥さまと話し合いのテーブルすらついていないですよね」「(真偽を)明らかにすることを望んではいないのですね…」
カトリックの神学生が預言者ホセアに言う。
「あんた、あほやな~。なんでそんな女にこだわるん?」
ホセアが答える「私もそう思った。でも、主が私に命じた。『姦淫の女を愛せ』と」
ゴメルの不倫、でも神の愛を実践するよう召されたホセアは、現実の痛み、混乱と神の憐れみによる(イスラエルの未来への)希望を両方感じていたであろう。
でも、ノンクリスチャンのご主人は…子どもへの責任感、妻の両親に頼まれたことへの責任感… 赦しや忍耐を現実的に子どもたちのことを考えて選び取った。
ホセアはゴメルとやり直すことにした。裁くことをしなかった赦しに対して、
ホセアもこう言うだろう。「難しいと自分で思った。でも、それが神の愛だと主が言った。」
傷ついたが、赦しを選び取ったホセア。聖書は、ゴメルが神に直接出会い、変わったという記述はありませんが、「恢復と変化」が暗示されているのではないか。
ホセアがゴメルを買い戻し、再び一緒に暮らす選択「お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間わたし(ホセア)のもとで過ごせ。わたし(ホセア)もまた、お前のもとにとどまる。」(ホセア3-3)は、見えないと言って目をふさぎ、聞こえないと言って耳をふさぐ、預言が届かないイスラエルの民を見捨てず愛し続ける神の姿でもある。
聖書には、ゴメルの内面の変化は明言されていませんが、「そのとき、彼女(ゴメル)は言う。『初めの夫(ホセア)のもとに帰ろう。あのときは、今よりも幸せだった』」(ホセア2-9)では、悔い改めの兆しであり、イスラエルの民も迷走し、追い求めても(愛人に)満たされず、(主人に)立ち戻ろうとしたとも解釈できる。ここでいう神ご自身とは、
「神はモーセに言われた。『わたしはある。わたしはあるという者だ』。そして言われた。『イスラエルの人々にこう言いなさい。「わたしはある」という方が、わたしをあなたたちに遣わされたのだと。』」(出エ3-14)
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ここまで神の愛の中にあるゴメルの姿を描きましたが、現実問題として、
ホセアは、「長い間わたしのもとで過ごしなさい」とゴメルに、夫婦関係のやり直しを求めますが、…
「普通は戻らない!」現実では「元さやなんて無理」というケースが圧倒的に多いです(笑)
村の人が言う「あんな女、戻るなんてありえない」「ホセア、正気か?」
新しい男ができれば、過去の男は過去のものになる。女性の恋愛は上書きだと言われます。特に女性が自分から出て行った場合は、その決断には何度も悩み、考え抜いた気持ちの整理や覚悟があることが多く、戻ることは少ない。この一般論に多くの人が共感するでしょう。
でもホセアは言います。「神は離れた民を見捨てず、再び愛される。それは背いたから「終わり」ではなく、何度でも呼び戻す神の愛である。」
迷子の羊を呼び戻すイエス「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」(ルカ15:4-6)
特に女性が自分から男から離れる選択をしたときは、すでに気持ちの中で結論が出ていることが多く、戻る理由が見つからない。次の人との恋愛が今(過去)の恋愛より良いものであろうという確信がなければ、女性は乗り換えない。
でもゴメルは衝動的だったのか…
「主はわたしに言われた。『もう一度行って、他の男に愛され、姦淫をしている女を愛しなさい。…そこで、わたしは銀十五シェケルと、大麦一ホメルと一レテクを払って、その女を買い取った。」(ホセア3:1–2)
でも現代の女性の視点から見ると屈辱だ〜‼︎
古代ギリシャの哲学者プラトンが、シチリア島で奴隷として売られた話があります。
紀元前388年頃、プラトンは理想国家の実現を夢見て、シチリア島の都市国家シラクサを訪れた。しかし、当時の僭主ディオニュシオス一世との思想的対立により、プラトンは捕らえられ、奴隷として売られてしまった。その後、彼の友人や支持者によって奴隷市場から買い戻され、自由の身となった。
「奴隷状態であったゴメルをホセアが買い戻した」話とよく似ているが、プラトンは理想を求め、それを否定されたが(プラトンの存在も哲学も)、後に有名なイデア論を生み出し、アテネ郊外にアカデミアを開校した。
ゴメルは、買い戻され「恢復」「赦し」の中で、ホセア書は途中までの物語、完結していないとしたら、結末は何処にいくのだろう。
イスラエルの罪に神の変わらぬ愛が中心だとしても、価値観のズレがもはや修復不可能であろうと反論したいが、…
日常の選択がすれ違う、何を大切にするか、何が嫌か、何に心惹かれるか、が違う。
言葉の意味が通じない、同じ「愛」や「幸せ」でも、アガペーとエロス、フィリア(友愛)、ストルゲー(家族愛)はまるで違う。
未来のビジョンが共有できない。どういう家庭を築きたいのかが一致しない。
ホセアは、夫婦関係の修復、調和された家庭の維持、神の愛の体現を生きるモデルにならないといけない。ゴメルは面倒なことはホセアに押しつけ、後先考えず自分の欲望や快楽に流されやすい。
自由に気ままに生きたいゴメルと、秩序を重んじるホセアだと、子育ての場面で衝突が起きやすい。「子供がいなかったら、ケンカにならなかったかも」というのは、摩擦が少なかっただろうという想像。
「彼女は身ごもって男の子を産んだ。主はホセアに言われた。『その子をイズレエルと名づけよ。』」(ホセア1:3–4) 最初の子はホセアの実子であるが、あとの2人の子はホセアの実子ではない可能性が高い。
男の子のイズレエル(イズレール)「神は種を蒔く」または「神が散らす」の意味、北イスラエル王国の終焉を告げる。
「彼女は再び身ごもって女の子を産んだ。…」(ホセア1:6) ロ・ルハマ(ロ・ルハマー)「憐れまれない者」の意味、「わたしはその子らを憐れまない。彼らは姦淫によって生まれた子らだから。」(ホセア2:4)
「彼女がロ・ルハマを乳離れさせた後、また身ごもって男の子を産んだ。…」(ホセア1:9) ロ・アミ「わたしの民ではない」神とイスラエルの契約の断絶。
ゴメルは一度だけでなく、繰り返し不倫を重ねた。「行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らをもうけよ。」(ホセア1:2) これはいい加減にしろ~と叫びたくなるレベル…
「私は家庭におさまるより、心のままに生きたい。あなたといても、幸せじゃない」
育児放棄して、なんでそんな人と結婚生活を継続する必要があるの?‼
「ホセア、あの人また他の男に行くよ。自分に釣り合う人と生きたほうがいい」
ホセアの答え「わかってる。でも、私は神の愛を生きるように言われた」
家庭内不和は相当なストレスです、しかも父親が違う子どもたち…を育てないといけない。ゴメルの奔放さが許されているのは、ホセアの忍耐と責任感があるからこそ。「逃げないことを前提にした愛」ではなく、逃げられることを知った上での愛。
「また逃げるのでは?」という懸念は、リアルな可能性。信頼関係が壊れた経験を知っているからの直感であり、ホセア書を神学的なメッセージではなく、人間の物語として読んだときに自然に湧いてくる感情です。
ですが、
「ロ・ルハマをルハマ(憐れまれる者)とし、ロ・アミをアミ(わたしの民)とする。」 「わたしは、わたしのために彼女を地に植える。 憐れまれなかった者を憐れみ、 『あなたたちはわたしの民ではない』と言われた者に向かって、 『あなたたちはわたしの民である』と言い、 彼らは『わたしの神』と答える。」(ホセア2:23) 現代の感覚では、普通の人間では到底至ることのできない境地、キャパシティー‼ こんなに帳消しになっても良いのか~
神学的な観点から読むと、痛み、混乱、破壊を歓び、調和、再創造へと導いていく、また投げやりになることでもなく、あきらめることでもなく、その方向に向かっていくために、まだあなたにはできることがあります…というメッセージであろう…
ホセアは責任感が強く、ゴメルを支えたが、現代の私たちが「価値観が合わない相手」と再び心の奥底の深い関係を育み合うことには、心理的な安全の観点からも限界があります。お互いに悪意はないにもかかわらず、食い違いやすれ違いはお互いのメンタルをやられる可能性もあります。存在の肯定ではなく、否定に傾いた時、間に通い合う愛情が感じられなくなった時…
お互いの間にガラスを隔てて、理性的に接する。疲れたら、離れて1人になって、リフレッシュするときを持つ。言って悪くなる事は言わない。されて嫌なことは本人に直接言うと、感情的観点とされるので、第三者を通して、伝えてもらう調整。これは、感情をコミットすることがどちらかができない場合にはビジネス、仕事の場で円滑に進めるための取り決め、方法としてとられることもあります。お互いの正義、お互いのやり方がぶつかり合うとき、上司に確認をとりますが。
価値観が合う人とは、信頼できる人、一緒にいて安心できる人でないと、心から安らげない。
現代の感覚ではゴメルは家庭の枠に収まらない、奔放な女性なのだろう。ただし、聖書ではゴメルの行動の理由や心境はほとんど明確に語られていません。
「彼女(ゴメル)は言った。『私(ゴメル)は行って、私の愛人たちの後を追おう。彼らは私にパンと水、羊毛と亜麻、油と飲み物を与えてくれる。』」(ホセア2:5)、感情的な依存、経済的な安心、物質的な満足を求めて愛人たちに走った。
自ら望んだ出奔ですが、愛人に捨てられ、生活の手段を失い、奴隷市場に売られた。
そして、ホセアがゴメルを買い戻す時も、ゴメルは奴隷状態にあり、自力で生きられない状況だったとも解釈されます。感情に流されやすく、生活力が弱く、食べるもの、着るものが、ゴメルの衝動的な行動の動機になっていた可能性もあります。
だからこそ、ゴメルが戻るのは「愛」ではなく、生存のための選択だった可能性もある
ゴメルが言う。「雨風をしのげる場所が欲しかった。あなたの家は、あったかいから」
ホセアが答える。「それでも、私はあなたを迎える。愛は理由を問わない」迎える側の愛は、本物だった。
ホセアはストレスでいっぱいであっただろう。
家庭の不安定さ、妻ゴメルの不倫と買い戻しという個人的な苦悩を経験。
預言者としての孤独さ、イスラエルの民に拒絶されながらも、神の言葉を語り続けなければならなかった。
時代背景は、北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされる直前であり、政治的、宗教的堕落(異教の神、偶像崇拝)の中で活動した。
ホセアの預言活動期間は紀元前753年〜722年頃とされ、30年以上でした。
「家庭の問題+職場での孤立+社会の不安定さ」の三重苦の中で、ホセアの精神的、肉体的な負荷は相当なものだっただろう。
「主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる。…主は我々を生かし、…立ち上がらせてくださる。」(ホセア6:1-2)
なぜ男性は家庭内で妻に困っていても、女性に比べると深刻であればあるほど言わないのか?
弱音を恥と感じる。家庭のことを外で言うのは、男として未熟だと思うのだろう。
感情より論理で話す傾向、男性は「困っている」と感情や気持ちを言うより、「なんとか回している」と言う。感情を言語化するより、解決策を考える、解決できないことは言ってもしょうがないと、黙って耐えることが美徳とされやすい。
言う場がない、井戸端会議が発生しない。女性同士の共感ベースの会話が少ないため、普段はビジネス思考、仕事の脳なので、語る機会も、語る言葉も持ちにくいのだろう。不器用であるとも言えます。
どうして、ゴメルのような女がいるの?
現代でも結婚しても婚外恋愛をする人は確かにいます。 特にフランスなどでは、個人の自由や情熱を重視する文化的背景があり、婚外恋愛がタブーとされない文化があります。
関係の中で満たされない部分があったり、そもそも「家庭」という枠におさまらない性格だったりすることもあったりする場合もあります。だからこそ、「戻ることが愛」ではなく、「離れることがお互いにとって良い」場合になる場合もあるのです。幸せのかたちは、ひとつじゃない。
古代ギリシャの哲学者ソクラテスの妻クサンティッペは気性が激しく、口論が絶えなかったらしい。ソクラテスは、妻によって哲学的思考、対話力を鍛えたとされる。「悪妻との生活が哲学者を鍛える」
預言者ホセアは「主が命じたので身持ちの悪い妻と結婚し、その苦しみを通して神の愛を語る」役割があった。
どちらも家庭内の苦しみ、心配ごとが哲学、預言を深める要因になっていることは、興味深い共通点です。悪妻であったからこそ、哲学も預言も深められたといえるかもしれません。
以上、もう一度、お断りしておきます。この記事に、神学科、神父は一切関与しておりません。そして、ホセアとゴメルの物語は創作ですが、前半のご主人から聞いた話は、フィクションではありません。大学時代ではなく、卒業してから、数年後に体験したことです。