イエスは目をあげて、金持たちがさいせん箱に献金を投げ入れるのを見られ、また、ある貧しいやもめが、レプタ2つを入れるのを見て言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」。

私は思った。確かにそうだ。割合と言う意味ではなく、たくさん入れた。神に出し惜しみするのは忠実ではない。そして、

「~それだけではなく、艱難をも喜んでいる。なぜなら、艱難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない~」

最後の文は新共同訳では、“希望はわたしたちを欺くことがありません。”に、なっている。私はこちらより、“希望は失望に終ることはない”の方が好きだ。

この言葉はパウロがローマ人にあてた手紙で書いたものだが、私はパウロが好きだ。なぜか気が合う。ところで、この一連の連鎖は自分の内側から正のエネルギーを引き出すようで、昔はよく励まされたもんだ。そして希望が失望に終ることをたくさん経験してしまった。そして希望は失望に終わることを知ってしまった。艱難の対価としての希望なのだろうか。だとしたら境界線はどこだ?この世とあの世か?つまり、この世で艱難を受けてあの世で希望を受けるということなのか?いや~そうは考えにくい。希望とは、ただ単に自分の心の持ちようとしての希望なのか?自分は今は信じられないな。いつかはまた、この聖句のように思う日が来るだろうが。いや、本当に来るだろうか。

ルカによる福音書第21章第1節―第4節 国際ギデオン協会 新約聖書

ローマ人への手紙第5章第3節―第5節 国際ギデオン協会 新約聖書、日本聖書協会 共同訳聖書実行委員会1987,1988 聖書新共同訳旧約聖書続編つき