いや、そうではない。違うな。
理由もなしに突然災難に見舞われたからこそ、そこに意味がある。前に、ヨブは義人だったが善意や良心がなかったのではないかというようなことを書いたが、教訓という意味はあっても、理由づけした事象とは思わない。
つまり、………….
ヨブは、偶像崇拝されている社(神殿)を清めるため、試練に臨む。なお、わたしはこの社や神殿とは、我々が住んでいる地球やこの世ととった。
そして、悪に試みられ、自分の命以外全てを失う。
そして完全ではないが耐え忍んだので神より恩恵を受ける。前の2倍の恩恵を受ける。
こういうことは本当にあったかもしれないが、何かをしたから恵みを受けたというのはおかしい。
新約聖書でイエスは言われている。あなたがたは値なしに恵みを受け取ることができると。
もしそうでなかったらどうなるか。
試練に遭ったから恵みを受けたとなると、われわれはいまだに律法に縛られていることになる。そして絶えず罪に縛られていることになる。何かの言いつけを守ったからこうなる、破ったらこうなると言うのはおかしい。われわれはもう、イエスを信じれば義とせられ、イエスを信じれば値なしに恵みを受けることができる。「イエスを信じれば恵みを受けれるって条件が付いてるじゃないか」と言われると思う。しかし、そうではない。イエスを信じなければ、目の前に恵みがあっても見えないのだ。まるで盲目の者だ。見えない恵みは自分の方に取ることはできない。律法と罪がセットになっていて、信仰と義がセットになっている。そして恵みは、信仰を持っていればそこに泉のように湧き出しているものを受けることができるものと言った感じだろう。
理由があったからヨブはあんな悲惨な目に遭ったんだろうという考えは、神の、神という範囲を人間が勝手に決めつけているようでならない。
神が人に行うことには理由や意味がないからこそ、そこに、神の美学がある。
再度、掲載。
コヘレトの言葉にこうある。
“ただし見よ、見いだしたことがある。
神は人間をまっすぐに造られたが
人間は複雑な考え方をしたがる、と言うこと。”
教文館 聖書外典偽典別巻補遺Ⅰ ヨブの遺訓;日本聖書協会 聖書新共同訳 ヨブ記、日本聖書協会 聖書新共同訳 コヘレトの言葉 第7章第29節