第四章 本領発揮!
僕に対する暴力は、日常茶飯事だった。殴る・蹴る・つねる・タンをかけられる・鼻クソをつけられる、などなど。その主力メンバーは、モリ、ハナクソ、シゲだ。
そして女子からは罵声の嵐、
「クサイ」
「キタナイ」
「キモチワルイ」
「ハゲ男菌が、ウツル」等がそれだ。
クラス全員からは、冷たい視線。
僕はもちろん、初めの頃は彼らに「やめてくれ!」と言っていた。それでも、これらの卑劣な行為をされたのだった。いや、むしろ「やめてくれ!」と言ったら、
「なにぃ?おめえは生意気なんじゃ。クソ野郎!」
と言われて、七の七倍、四十九倍ほどにもなおさら殴られ、蹴られ、つねられ、タンをかけられ、鼻クソをつけられる。だから、初めのうちは「やめてくれ。お願いだ」とか言っていたけど、言っても無駄だと分かってからはもう何も言わなかった。
彼らにしてみれば僕は、人間製サンドバッグだった。殴り甲斐のある、蹴り甲斐のある、生身の人間製サンドバッグだった。
二学期、三学期となるにつれて、友達も一人、二人と少ないながらにもできたけど、僕が殴られ、蹴られ、つねられ、タンをかけられ、鼻クソをつけられている時に友達がそのやられている姿を見ても、もちろん完全無視が暗黙の了解、鉄則だ。先生に告げ口をすることも誰一人としてしない。それが鉄則だ。僕だって先生に告げ口をしない。それが鉄則だ。
泣いた。毎日泣いた。学校の机に対して横向きに椅子に座り、ひざを抱えるような姿勢で「ぅわんぅわん」と泣いた。何でこんな姿勢をとったのかというと、こうすると顔やお腹を殴られたり蹴られたりあんまりしなかったからだ。
そうして鼻水をたらして、目からは次々と涙が流れ出て、ほおやあごを伝って床下に《ポトポト》と落ちていった。いくつもいくつも落ちていった。しばらくして泣き止むと、目は真っ赤でほおやあごは《カペカペ》になっていた。
泣きながら色んな事を思った。
「どうして、僕だけいじめられるんだろう」
「どうして、僕をみんなでいじめるんだろう」
「どうして、誰もいじめてる奴らに注意しないんだろう」
「どうして、誰も先生に言ってくれないんだろう」
「どうして、僕は先生に告げ口しないんだろう」
「どうして、僕はいじめてる奴らに反抗しないんだろう」
「どうして、僕はこういう運命なんだろう」
「どうして、神さまは僕を見てくれていないんだろう」
「どうして、神さまは僕に現れてくれないんだろう」
「どうして、神さまは僕を助けてくれないんだろう」
「どうして、神さまは、僕をいじめてる奴らに仕返しをしてくれないんだろう」
「どうして、神さまは、僕をこの学校に転校させたんだろう」
「どうして、僕は、生きようとし、生きているんだろう」
そしてチャイムが鳴り、授業が始まった。
十四歳の時の思い
わたしをいじめてる人たちが、あるいは彼らに釣られて同調する人たちがわたしを本格的にいじめ始めたのは、《ラブレター事件》の時ぐらいからだった。その頃までは精神的苦痛だけだったけど、その頃から後は精神的苦痛と肉体的苦痛が見事に混ざり合っていた。
うまく表現できないけど、同じ事柄のいじめを受けた時に人が感じる悲しみの激しさみたいな、心の痛さみたいなものは、それぞれ人によって違うと思う。
わたしは自殺しなかった。自分から「死のう」なんて考えてもみなかった。理由は大きく分けて三つある。
一つ目の理由は、先のわたしが泣きながら思ったこと、十三個の疑問がわたしを待っていたからだ。
二つ目の理由は、《仕返し》・《報復》・《裁き》・《天誅》が奴らに加わることをわたしが待っていたからだ。
三つ目の理由は、彼ら、彼女らも本領を発揮したけど、わたしも本領を発揮してきたからだ。わたしがどんなことで本領を発揮してきたかというと、神に対するわたしの想いだ。わたしの感じ方だ。初めの、まだ幼い頃のわたしはただ単純に、神様というのは弱い人や貧乏な人を救ってくれるやさしいおじいさんみたいにいつも想っていた。それが段々と変化していった。この頃のわたしは《神》という存在に対して、ある時は《神様が救ってくれる》と信じて、ある時は《神様は不公平だ》と疑った。でも結局は《明日は救ってくれる》と、神を信じた。こういう風に、ただ漠然と神様を信じていた自分から、いろいろと気持ちが揺らいでも結局神様を信じた自分へと、わたしの心は成長し、わたしの神に対する想いは本領を発揮してきた。
そんなこんなで、わたしの心の中には常に神の存在があった。
「今日も一日、悔しかった。悲しかった。でも明日は違う。きっと神様が救ってくれる」。そう希望を持ちながら、今日という日に眠った。
そして、恐らくはいつもと同じであろう、朝が来た。