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 第34回のブログで11月1日、日曜日の靖国神社での骨董市で昼飯を食べた休憩所の由来のお話しをしましたが、この休憩所を献納した豊原繁尾さんのことが気になり、ちょっと調べてみました。2つの発見がありました。
 一つ目は、彼女の肖像写真です。大正8(1919)年3月のお茶の水女子大学の、当時は女子専門学校でしょうか、卒業写真です。手芸を担当したといいますから、教師として手芸を教えていたのでしょうか。手芸に関する著書もあるようです。一点を凝視するかのような端正な顔立ちです。
 その人物の写真が残っていると、様々なイマジネーションをかきたてます。たとえば、NHKの連続テレビ小説「あさが来た」のヒロインのモデル・広岡浅子さんの写真があります。椅子に座り、本を読んでいます。正面からの顔はわかりませんが、端正な顔立ちです。一方、写真がない幕末から明治の有名な方といえば西郷隆盛です。西郷さんが写っているという古写真があります。私も洒落で「フルベッキ写真」と称する幕末の志士たち総動員の古写真をもっていたことがあります。写真で得しているといえば坂本龍馬でしょう。何枚かあるようですが、一番、有名なのは片手を懐にいれ、颯爽と立つ全身像でしょう。あのポーズは本人が考えたのか、写真師が考えたのかはわかりませんが、龍馬自身とすれば、ナルシストともいえますが、映像の力がわかっていたともいえるかと思います。
 話がそれました。豊原繁尾さんの語る東京招魂社の神主長屋の話が「路政春秋」という、道路改善協会という戦前の雑誌に出てきます。林前首相とか近衛内閣とか出てきますので、昭和10年代の話かと思います。その雑誌の投稿欄に豊原繁尾刀自が語る「ありやなしやの珍聞奇譚」九段坂上靖国神社の燈明台の由来と称して、靖国神社参拝休憩所の豊原繁尾刀自(76歳)と出ています。仮に昭和10年の記事とすると、西暦1935年ですから、繁尾刀自の生まれは1859年と幕末になります。だから、休憩所の由来には彦根藩士の娘に生まれたと書いてあったのですね。考えてみれば、つい70年前までは、士族とか平民とか公爵とか伯爵といった身分制度があったのですね。
 さて、刀自が語っているのは、燈明台のあったあたり、明治10年ごろに神主長屋があり、60人もの失業した神主たちが住んでいた。彼らは駿州や遠州、静岡県からやってきた、。その理由は、幕末、勤皇派として活動したために、幕府崩壊後、最後の将軍・徳川慶喜や徳川家臣団がやってきた静岡にいられなくなり、お上、つまり薩長土肥の明治政府が、面倒をみることになったというのです。そして静岡からやってきた神主たちは毎夕、燈明台に灯をともしては、海の方角をみていた、それは刀自の目には望郷の念にくれる姿に見えたといいます。さらに燈明台の石組が立派で全国の石工が感嘆したこと、房総沖から江戸前の魚を運ぶ漁船にとって、この燈明台はいい目印になったことなどを語ったといいます。

 今夜は骨董の話ではなく、幕末から明治、大正、昭和を生きた一人の女性の話をいたしました。いかがだったでしょうか。豊原繁尾刀自がいつ亡くなったのかはわかりませんが、ちょっとした発見から、あれこれ調べてみるのも面白いと思いました。皆さんはいかがですか。

如庵