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 昨夜はサッカーW杯アジア地区2次予選、日本対シンガポールに気をとられていて、まとまりのない文章を書いてしまいました。反省です。日本代表は3対0と結果だけは出したというところでしょうか。サッカーW杯、今でこそ日本代表は出場して当たり前と思っているようですが、その昔は、W杯などがあることさえあまり知らず、しかも日本は「五輪偏重主義」というか「五輪最上主義」でした。オールドファンからすればこれほどサッカーが盛り上がる、しかもW杯に出場して当たり前というのは、ついこの20年ほどのことなのだと声を大にしていいたいところです。W杯本大会はお祭りです。参加できればいいのです。むしろ、本大会の出るための予選での紆余曲折、ハラハラドキドキのほうが面白いのです。

 さて、今夜は、まずは明治の京焼の「幹山伝七」の焼物の話から始めます。骨董でも焼物に興味を持ち始めたころ、京都の知恩院を極彩色で描いた醤油さしのような形をした磁器を、京都の弘法さんで買いました。その形と知恩院を描いているところが面白いと思いました。そのころは焼物に関する知識もなく、「幹山」と書いてありましたが、あわて者の私は、「乾山」と勘違いしました。まさかとは思いました。調べてみると、まず文字の形が全く違うこと、また、「幹山」と「乾山」、つくりの部分が違うことがわかりました。
 では「幹山」とはだれかと調べたところ、幕末から明治の陶工であることがわかりました。1821(文政4)年~1890(明治22)年ともわかりました。尾張の瀬戸の生まれで、彦根藩の招きで湖東焼を焼いたりしています。1862(文久2)年ごろ、つまり40歳も過ぎてから京都へ出てきて、清水坂に窯を開いたといいます。そして、西洋的な洋風磁器をワグネルに学び、輸出用磁器を焼くようになったといいます。「幹山」を名乗るのは1862(文久2)年ごろとも1872(明治5)年以降ともいいますから、知恩院の醤油さしをつくったのは早ければ1862年以降か1872年以降になります。もちろん、これが本当に「幹山」作とすればですが。「乾山伝七」は腕は確かだったようです。作品をウィーン万国博覧会に出品したり、皇室の磁器を収めたりしています。しかし、皇室に収めた「色絵四季草花食器」の完成度に比べて、私の手元にある知恩院の醤油さしは、絵が稚拙です。もしかしたら、ワグネルの指導を受ける前に、試験的に焼いたものか、あるいは、明治の近代的な京焼の創始者となった「幹山」の贋物かもしれませんが、贋物にしても完成度は実に低いのです。稚拙といってもいいかもしれません。そうした作品に署名などするもでしょうか。
 しかし、私にとっての疑問は、本物か贋物かよりも、ワグネルというヨーロッパ人に教えられたという事実のほうです。江戸の初期に、中国の明の海禁制作で、完成度の高い中国の陶磁器はヨーロッパに輸出されなくなり、その代わりとなったのが伊万里焼や有田焼だったはずです。江戸の初期から中期にかけて、日本の陶磁器はかなりのレベルに達していたはずです。「幹山」は何をワグネルに学んだのでしょうか。ヨーロッパ人が好む陶磁器のデザインだったのでしょうか。色遣いだったのでしょうか。明治の初期、日本が海外に輸出できるものといったら、生糸とお茶くらいのものでした。そんな中で明治政府は陶磁器も輸出品にしようとしたのでしょうか。元々、ヨーロッパの陶磁器のレベルはそれほど高くなかったはずです。だから、中国や日本の陶磁器を輸入したはずです。
 
 話は一挙に縄文に飛びます。縄文土器は世界でも最古の土器といわれます。1万5千年ほど前に誕生しました。土器は土と火があればできます。たぶん、何かの偶然で土が火に焼けて、固くなることを縄文人は知ったことでしょう。では、なぜ土器を発明したのでしょうか。先日、NHKで放送していたNHKスペシャル「アジア巨大遺跡」では三内丸山遺跡を紹介していました。そこでは、土器づくりの専門家がいた可能性もあると言っていました。また、縄文土器のあの火焔土器や土偶の形の奇妙さも紹介していましたが、私の関心は文化の交流というか異文化との摩擦による焼物の発展です。
 縄文土器のあとは弥生土器、さらに朝鮮半島からの渡来人による須恵器という土器よりも技術的に高度な焼物、これは渡来人のおかげです。須恵器から六古窯という形で、日本の土器は進化していきます。
 私の手もとには、鎌倉期の小壺があります。須恵器よりは固く、しかし、六古窯ほどの技術はない、ろくろ目があり、また、多分、備前焼でしょう、窯印もついています。
 六古窯で焼かれた大壺は、ほとんどが実用のものでした。公家や武家が尊んだ焼物は、その多くが中国や朝鮮半島から入ってきたか、輸入された陶磁器でした。
 そして、日本の焼物を一変させる事件が起きます。豊臣秀吉の朝鮮出兵です。朝鮮出兵の功罪で、唯一の「功」は、挑戦半島の陶工たちが日本に連れられてきて、日本の焼物を一変させたことでしょう。当時は安土桃山時代から江戸の初期にあたり、お茶が武家や公家さらには商人を中心に大流行していた時代でした。さらには、有田焼や伊万里焼の窯では、ヨーロッパ人たちが好む磁器が作られていました。
 つまり、異文化の交流や衝突のなかで、日本の焼物の歴史は作られてきたのではないかということです。また、今でこそ、陶磁器などは当たり前のように私たちの生活にありますが、つい100年ほど前までは陶磁器はその時代の最先端技術の粋を集めた商品でした。さらに極端な言い方をすれば「中国の」とか「日本の」とか「朝鮮の」陶磁器というのでは焼物や陶磁器を語ったことにはならないのではないかと思うのです。もちろん、その一方で熟成する時間も必要でしょうが、技術というものはお互いが影響しあうことで発展するものです。
 色絵の技術やより完璧な磁器の研究は有田や京都でも江戸期には研究されたと思います。また、中国でも研究されたと思います。しかし、その間に、ヨーロッパでは、産業革命が起きて、それまではなかったような、様々な技術革新が起き、それは磁器の色遣いにも応用されたと思います。幹山伝七を指導したワグネルは数学や物理学を学んでいます。さらには化学工場も経営したといいます。そうした経歴を生かし、日本にやってきたワグネルはお雇い外交人教師として、化学の知識をもとに日本の窯業にかかわったといいます。
 ここからは、私の妄想ですが、今、再評価されつつある「超絶技巧」の明治期の焼物も技術革新の成果の中からでてきた、いわば結晶ではないかと思うのです。

 さて、明日は第二土曜日、護国寺の骨董市があります。ただし天気予報では朝から雨の予報です。小規模な骨董市ですが、新たな出会いはあるのでしょうか。なんとか午前中くらいまでは天気がもってほしいものです。

如庵