今朝の新聞の朝刊を見て驚いたのは、作家の杉本章子さんが62歳でガンで亡くなられた記事でした。直木賞を受賞した「東京新大橋雨中図」は、明治の初期に活躍した浮世絵師・小林清親を描いた作品です。直木賞を受賞された直後に、私はこの作品を読みました。そして、再読したのは、京都に住んでいたころです。その直後に、骨董市で、小林清親の「上野東照宮積雪之図」を発見し、奇妙な偶然に、業者さんから譲っていただきました。今でもリビングに飾っています。そのことは、このブログでも以前に触れたかと思います。
さて、今回は下野・黒羽藩の第11代藩主、大関増業(おおぜき・ますなり)というおもろい殿様のことをお話ししましょう。生まれたのは天明元(1781)年、伊予の大洲藩主・加藤家の八男に生まれています。
伊予の大洲といえば、一度、行ってみたいと昔から思っている城下町です。1977(昭和52)年公開の映画「男はつらいよ」~寅次郎と殿様~の印象が強く残っているからです。当時は「男はつらいよ」は夏のお盆休みと正月の時期にあわせて年に2本、公開されていました。舞台はまさに大洲です。殿様役はアラカンこと嵐寛寿郎さんでした。「男はつらいよ」論をやりだすと際限がないので、やめておきますが、アラカンさん演じる殿様の世間知らずぶりの演技、執事役の三木のり平さんの演技、今でも思いだすと笑いがこみあげてきます。もちろん、今でもDVDで見ることができます。
さて、加藤家に生まれた増業、呼び捨てはなんなので、増業公としましょう。八男ですから、藩主になれる可能性はほぼゼロでしょう。捨扶持800石を与えられます。それで思い出すのは井伊直弼です。彼も井伊家の何番目かの生まれで、捨扶持を与えられ、「埋もれ木の舎」で、若い時代を過ごしています。同じような青春を送ったといえば土佐藩の山内容堂もそうですね。
さて、増業公の運命が変わるのは文化8(1811)年で31歳という年齢です。そのころの黒羽藩は借金だらけ、増業公の養父にあたる大関増陽(ますはる)は何とか財政を立て直そうとしますが、家臣団の猛烈な反発にあったようです。増陽公には跡継ぎとなる実子も何人かいましたが、増業公を大関家の第11代藩主に迎えるにあたっては、持参金2000両が増業公とともに黒羽藩にやってくるというので、藩主の増陽公がお膳立てしたのか、藩主に反抗する家臣団が企てたのかはわかりません。しかも増陽公は、増業公よりも3歳下。幕府には増陽公は30歳、増業公は27歳と申し出ています。今の感覚で考えれば公文書偽造ですが、幕府は認めます。幕府にしてみれば、そうしたことはすべて知っていたのでしょう。あるいは1万5千石程度の北関東の小藩のこと、目くじらたてるほどのこともないと思ったのでしょうか。
「末期養子」という言葉があります。これは家存続が最優先の当時の武家社会の方便とでもいうべきでしょう。当主はすでに死亡している。しかし、適当な後継者はいない。普通ならば、そこでお家断絶となるのですが、幕府には「当主は病気で療養中」と届けておいて、家臣たちが適当な後継者を探し、後継者が決まったところで、「当主は死亡」と届けるというものです。ここでは「武士は相見互い」という論理が働くのかと思います。よほどの訳ありならばともかく、お家断絶になって困るのは家臣団です。今でいえば企業の倒産です。こうしたことが続けば社会不安のもとになるでしょうし。江戸幕府の権威・権力が強かった1600年代であれば、お家取り潰しなどは頻繁に行われていますが、1700年代以降になると、大関家のようなことはしばしばあったようです。
さて、持参金2000両で第11代黒羽藩主となった増業ですが、火の車の財政状況にびっくり仰天し、財政再建に取り組みます。まずはおなじみの経費節減と商人からの借金、さらに換金性の高い農産物の栽培、また、黒羽は太平洋に注ぐ那珂川が町の中心部を流れていますので、那珂川の水運交通をよくし農産物で現金収入を得ようとしたのかと思います。こうした政策は西国生まれの増業公にすれば当たり前の政策だったでしょう。島津家や毛利家、山内家、鍋島家など明治維新を成し遂げた藩ではそうした政策によって、資金をため込み、幕末の政治活動や軍事力の強化に使っているのです。増業公の生まれた加藤家も、先駆的な藩だったようです。坂本龍馬が、海援隊を組織したときに、龍馬の知り合いの加藤家の重臣に帆船だったか汽船だったかを購入するように勧めたというエピソードがあったかと思います。
ところが、増業公のやろうとした政策は、またまた家臣団の反発を受けます。そんなとき、文政5(1822)年に黒羽城の本丸御殿が全焼します。増業公は41,42歳になっています。その失火の原因をめぐって、またもや家臣団と対立。重臣たちは、増業公の行ったもろもろの政策に対して、失政41か条を突き付けます。増業公支持派の家臣もいたようですが、1年近いゴタゴタの後、増業公は隠居します。文政7(1824)年、増業公、40歳代前半の年頃でしょうか。今とは年齢の感覚が違います。当時は40歳代で隠居するのはけっして珍しくなかったようです。
徳川家御三卿のひとつ清水家に仕えていた村尾正靖、隠居して村尾嘉陵(1760~1841)は、40代半ばで隠居、江戸の近郊を気の向くままに歩きまわり、通称「江戸近郊道しるべ」という今風にいえば散歩エッセイを残しています。また、日本初の実測地図「大日本沿海輿地全図」を作った伊能忠敬(1745~1818)も確か50代半ばで隠居した後に、この大事業を成し遂げています。つまり、江戸後期になると、”隠居文化”とでもいうものがあったのではないでしょうか。別に江戸時代はよかったという単純な江戸賛美論ではなく、60歳を過ぎた私自身の今後の生き方の参考になると思っているだけです。江戸時代の人口はほぼ3000万人、平均寿命などはおおよそ50歳代でしょう。余計なことをいうと、この平均値はくせもので、むしろ中央値が大事だと今ではいわれているようですが。
我が家には私の曽祖父と曾祖母の2ショット写真があります。曽祖父は立ち、その傍らには椅子に座った曾祖母、写真の裏側には曽祖父65歳、曾祖母61歳と書かれています。ほぼ今の私と同年代ですが、子孫である私から見ると、70歳代か80歳代といってもいいように見えます。2人が生きた時代は幕末の天保時代から明治時代です。つまり、坂本龍馬や大関増業と同時代を生きているのです。龍馬さんも増業公も30代で不慮の死を遂げています。我が家の曽祖父も曾祖母もご普通の庶民だった、あるいは健康だった、そうした偶然が重なって明治時代まで生きられた、そのおかげで私も今いるということでしょう。
話が大幅にそれましたので、隠居後の増業公のお話しをしましょう。増業公は家督を養父・増陽の実子で増業公の養子にあたる増儀(ますのり)に譲ります。水戸の徳川斉昭や松代藩の真田幸貫と交際しながら、学問に熱中します。もともと学問好きだったようです。「創垂可継」という黒羽藩の概要を記した本や、医学書「乗可亭奇方」などの著作活動を行います。たぶん、黒羽の地を離れ、江戸の黒羽藩の下屋敷があった東京・荒川区に住んでいたのではないでしょうか。その風貌を伝える肖像画を見ると、生真面目な学者風の容貌です。亡くなったのは、弘化2(1845)年といいますから、増裕公は7歳ほど、まだ遠州・横須賀藩にいたころです。果たして、増裕公が大関増業という人物を知っていたかどうかはわかりませんが、増裕公が黒羽藩に迎えいれて、大関家の当主で尊敬しているのは増業公だと常日ごろ、言っていたそうですし、増裕公も幕府の要職を務める一方で黒羽藩の改革にも乗り出します。養子になるにあたっては、一種の独裁体制をひくことを家臣団に約束させたといいます。増業公の失敗に学んだのでしょうし、増業公のころよりも、社会状況が一層、切迫したことも背景にあり、ある程度は成功したようです。
以上、大関増業という学問好きのおもろい殿様のことをお話ししました。
如庵