今日は骨董市に行けませんでした。というか行きませんでした。11月に青銅器の「卣」、高句麗の鉄馬、胎内仏と思われる小金銅仏、あるいは李朝の小壺など、長年、私が夢見ていた”愛しきもの”たちがやってきてくれたからです。満腹感で一杯というところなのです。
この週末は趣向を変えて、中学生時代から興味のあった大関氏のことを数回にわたって、お話ししてきました。増裕公や増業公のことを考えることで、ほぼ私の関心は尽きているのですが、最後に、南北朝時代以降、黒羽藩が成立するまでのお話しを簡単にしようかと思います。
まず、大関氏の名前が出てくるのは、南北朝時代に京都・東寺での争乱で、大関なにがしが活躍したという記録が最初のようです。なにがしが誰か、ある資料でみた記憶があるのですが、今は見つかりません。東寺は弘法大師ゆかりの寺です。いまでも毎月21日には弘法さんが開かれますし、今はなくなってしまったようですが、毎月第1日曜日には骨董市があり、京都に住んでいたときには、必ず行っていました。東寺は京都の寺には珍しい境内の雰囲気です。皆さんご承知の通りで、平安京が作られた時、東寺と西寺がその入り口に創建されました。西寺はあっというまに消滅しました。今では、その礎石が残されているだけですが、東寺は正式には教王護国寺、鎮護国家の国営のお寺として、弘法大師空海に下げ渡されました。京都のお寺の多くは貴族の別邸をお寺に模様替えしたり、数寄屋造り風のこじんまりした佇まいのお寺が多いのですが、東寺は境内が広く、建物も大規模です。奈良時代のお寺の雰囲気があります。
さて、平安時代ごろから下野の北部、那須野が原の支配者は那須氏でした。平家物語の屋島の戦いで沖の舟の上、平家の女官がもつ扇を矢で仕留めたことで知られる那須与一の那須氏です。そして、那須氏を支える那須七党のひとつが大関氏でした。戦国時代を生きた大関宗増(1462~1544)は野心家だったようです。同じ那須七党の大田原資清の才能をねたんで、主君の那須氏に讒言し、大田原資清を追放し、あとはやりたい放題。ところが大田原資清の反撃にあい、宗増は自分の嫡男である大関増次を失います。では、大関宗増はどうしたかというと、大田原資清の長男を自分の後継者に迎えます。それが大関高増(1527?~1598)です。
この大関高増がまた、なかなかのやり手だったようです。主家である那須氏はそのころ、分裂抗争を繰り返したようですが、大関高増はある時は主君を助けたり、ときには反旗を翻したりしますが、元々が大田原氏の出身です。大関・大田原の勢力を背景に那須氏を支えつつも、他の那須七党の勢力をあの手この手でそいでいったようです。高増は剃髪して、家督を次男の大関清増(1565~1587)に譲ります。しかし、実権は握ります。
ところが清増は23歳の若さで病死します。大関清増の後を継いだのは嫡男つまり清増の兄にあたる大関晴増(1561~1596)でした。大関晴増は有能な武将だったようです。白河結城氏の婿養子となったり、常陸の佐竹氏の客将に迎えられたのですが、肝心の大関氏の跡継ぎがいなくなったことで、大関家を継ぐことになりました。
そのころ、中央では織田信長、豊臣秀吉による天下統一が着々と進んでいました。1589(天正15)年、秀吉は惣無事令を全国に発します。下野では大関家の主君にあたる那須氏と宇都宮氏の戦いが続いていました。秀吉は両家にいくさはやめるように命令します。その翌年が、秀吉の小田原征伐です。その際に、主家の那須氏がどうしようかと迷っていましたが、大関晴増は、いちはやく秀吉に使者を出し、秀吉方につきます。なぜ、そう判断したのかというと、秀吉の惣無事令の際に、那須家を代表して秀吉に会うために京都へいったのが大関晴増だったのです。そこで晴増は、秀吉という人物を見、中央の実態を目の当たりにしたことでしょう。晴増については、こんなエピソードも残されています。佐竹氏に客将として仕えていたときに、佐竹の当主から5万石を与えるから、家臣にならないかと誘われますが、断ります。仮にそのとき家臣になっていたら、大関氏は1.5万石とはいえ、大名になれなかった可能性があります。というのは、江戸時代になって、佐竹氏は常陸から秋田へ国替えを命じられます。そうすると、大関氏も佐竹氏ともに秋田へ行き、その家臣になっていた可能性があるからです。
小田原征伐で北条氏は降伏します。その後、大関氏の主家の那須氏は取り潰し、那須氏と対立していた宇都宮氏は一度は秀吉に所領安堵されますが、どういう理由でか、これまた取り潰されます。大関氏はいちはやく秀吉方についたというこことで所領は安堵されます。
天下は秀吉から徳川家康へ、そして江戸幕府が開府、そのときには、大関晴増は36歳の若さで亡くなっています。晴増の後を継いだのは大関資増(1576~1607)です。資増は晴増の弟にあたりますが、36歳の若さで亡くなった兄・晴増の子、政増がまだ幼いということで、黒羽藩の初代藩主になります。資増は32歳で病死、2代目は政増が継ぎます。しかし、この政増も26歳の若さでなくなっています。なお、晴増は秀吉の慶長・文禄の役、初代藩主の資増は関ケ原の戦いでは徳川方について戦っています。また、2代目の政増のときに大阪冬の陣・夏の陣では、豊臣方の首を97も取ったといわれています。
江戸時代、大関家は外様大名として1.5万石、ときには加増されて2万石の大名として江戸300年近くを過ごします。大坂城加番も時に勤めることもありました。前回、お話ししたように1700年代後半ともなると、他の小大名と同じ財政危機に見舞われます。大関増業は家臣団の反発にあい、「押込め」されますが、隠居後の生活が充実していたことはお話しした通りです。また、増裕の先代の藩主も「押込め」にあい、座敷牢に閉じ込められたといいます。「押込め」とは何か、それは笠谷和比古さんの「主君『押込』の構造」をお読みください。一言でいえば、「男はつらいよ」ではありませんが、「お殿様はつらいよ」ということでしょうか。
以上、長々と無駄話におつきあいいただきありがとうございました。
如庵