michael-thのブログ -34ページ目

michael-thのブログ

ブログの説明を入力します。

 2016(平成28)年初めてのブログです。遅ればせながら、皆さま、あけましておめでとうございます。
 と、いいつつも「正月や、冥途の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」という言葉を思いだしました。これは道歌と呼ばれる道徳的、教訓的な短歌です。意味は、おわかりになるかと思いますが、正月は新しい年を迎えたということでおめでたいのはもちろんですが、死に向かってまた1歩近づいたというわけで、喜んでばかりもいられないといった意味でしょう。生あるものは、みなそうです。ややブラックユーモアになりますが、生まれたての赤ちゃんでも、正月がくれば死に一歩、近づくのです。まだ、20代、30代の若い方には、ピンとこないかと思いますし、私も若いころはそうでした。しかし、今年、62歳を迎え、髪にも白髪が目立ち始めた初老と呼ばれる私にとっては、生あるものはすべて死ぬのだという諦念めいたものを、この道歌から感じるのです。では、たとえば秦の始皇帝が望んだといわれる不老長寿というのは、どうでしょうか。老いもせず長生きできることは本当に幸福なのでしょうか。医学が進歩したり、アンチエイジングの技術で、若いことはいいことだ、あるいは年齢の割りに若くみえるはいいことだという価値観には、私は違和感を感じます。先ごろ、亡くなった赤瀬川源平さんの言葉に「老人力」というのもありましたね。

 さて、冒頭の道歌ですが、作者は、あの一休さんで親しまれている一休宗純だそうです。室町時代の中期の禅僧です。後小松天皇のご落胤というのは、ほぼ確かなことでしょう。大徳寺の住持を勤め、詩・狂詩や書画に秀で、当時の禅寺の腐敗に対して奇行で報いたというお方です。「狂雲集」という詩集はあまりに有名です。

 あらためて「正月や、冥途の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」を考えてみると、「あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします」といった決まりきった挨拶よりも、ひねりが効いていて、おもしろいと思いのです。道徳的とか教訓的という道歌以上の面白さを感じます。道歌は江戸時代の心学で盛んに作られたといいます。心学は、神道・儒学・仏教を融合して、その教えをわかりやすい言葉と通俗的なたとえで説いたものです。石田梅岩がその代表として著名ですが、一休さんのこの道歌には、そうした説教じみた以上の上質なシニカルな笑いを感じます。

 新年早々、妙なブログになりました。なお、私の今年の目標はお茶を習うことです。いわゆる60の手習いとして、お茶を選びました。去年の夏、ひょんなきっかけから、我が家にやってきた茶道具ですが、道具という位ですから、使ってあげないと、かわいそうです。そんな思いから、今年はお茶を習う、あるいは楽しむという目標をたてました。お茶といえば、千利休以前の室町中期、つまり一休さんの時代には、庶民も多いに楽しんだそうです。そうした中から、珠光さんやら武野紹鴎さんやら千利休さんやら織田有楽斎さんやら古田織部さんやら小堀遠州さんやら松平不昧さんやら井伊直弼さんやら益田鈍翁さんやら松永耳庵さんやらの数えきれないほどの「数奇者(すきしゃ)」が出てきました。「淡交」という雑誌の新年号をたまたま読んだのですが、千宗室さんが、「(お茶の)稽古とは、古を稽(かんがえる)こと。つまり茶の湯に真摯に向き合ってきた茶人の思いに心を傾け、長い時間をかけて培われてきたものを学ぶということです。点前手続きばかりに目をむけるのではなく、先人が紡いできた歴史にも思いを馳せながら今年も稽古に臨んでいただきたいと思います」という一文を書いていらっしゃいました。
  
 そこで一句。「我もまた、平成の数奇者にならんとて、織部轡の茶碗ぞ、ゆかし」。果たして、数奇者になれるかどうか、途中で挫折するかもしれませんが、まあ肩の力を抜いて、お茶を楽しんでみたいと思います。その辺の途中経過は、このブログで随時、ご報告します。あまり期待せずに、お待ちください。

 如庵