今日は2015(平成27)年の大晦日、私の大晦日の夜の習慣は、我が家から歩いて10分ほどの氏神様の諏訪神社に深夜11時過ぎくらいに初詣に出かけることです。もちろん、まだ新年ではありませんから、拝殿の扉はしまっています。しかし、すでに数人程度の初詣の行列ができています。列に並び、夜空の星空を眺めたりしながら、新年を待ちます。11時30分ごろからはボーイスカウト・ガールスカウトの子供たちが、指導者のアドバイスを受けながら、かがり火に火をつけはじめます。
なぜ、こんな早い時間から並ぶのかといえば、この諏訪神社では、めでたい初夢が見られる「宝船」の刷り物を先着200枚(だったと思います)まで、無料で授与しているからです。
諏訪神社は、その名前から考えれば、信州の諏訪大社の系列の神社かと思いますが、その縁起は、平安時代の弘仁年間(810~824年)、小野篁が大国主命と事代主命を祀ったのがはじめで、その頃は松原神社といっていたそうです。小野篁といえば、平安時代の公卿さんです。父親が陸奥守に任じられたために、父親とともに、陸奥国に行っています。その道中にこの地に寄ったのかもしれません。一方、京都の六波羅には六道珍皇寺という篁ゆかりのお寺があります。京都に住んでいたころは、散歩がてらに六波羅を歩いたものです。小野篁は、昼間は有能な官僚として、しかし、夜になると井戸を通って地獄に行き、閻魔大王のもとで裁判の手伝いをしていたというけったいなお人です。珍皇寺には、その井戸が今でもあります。また、閻魔大王と小野篁の像もあります。その像を見ると、なかなかハンサムな方です。それで思いだしましたが、小野篁は遣唐使に任命されたことがあります。唐の国にいっても、東の国からやってきた野蛮人とあなどられないように、朝廷では漢文の教養はもちろん、その容貌や挙措動作などに秀でた人物を遣唐使に選んだそうです。確かに、小野篁さんの像を見ていると、立派なお顔です。また、身長は6尺2寸といいますから、190センチ近い長身の方だったといいます。これならば、唐の朝廷にいっても見劣りしなかったことでしょう。ただし、やや複雑な事情があり、遣唐使に任命されたものの、実際には行っていません。
話を諏訪神社に戻して、この地域は江戸期には、尾張徳川家の下屋敷でした。その初代の徳川義直が、松原神社から諏訪神社と改名したそうです。また、明治になってからは、陸軍の演習場になりました。その陸軍の演習の様子をご覧になるために明治天皇が行幸しています。
さて、そうした諏訪神社の歴史もさることながら、なぜ七福神が乗った宝船の刷り物を枕の下に入れて寝ると、おめでたい初夢がみられるのでしょうか。またまた、京都の話になるのですが、五条天神社では、節分の時に船の中に稲穂一束が描かれた宝船が授与されています。この宝船の絵は日本最古といわれていますが、こちらは厄除け、病除けにご利益があるそうです。どうも、初夢の宝船とは違うようですが、諏訪神社で授与される宝船は様々な金銀財宝が満載された宝船に七福神らしきお姿が印刷されているようです。七福神ではないのです。また、「長き世の・・・」で始まる回文歌は印刷されています。これは、江戸時代の烏山石燕が描いた「百器徒然袋」の「宝船」に似ています。
民俗学では、宝船の原型は、悪夢を乗せて流すという「夢違え(ゆめたがえ)」または「夢祓え」の舟が原型だそうです。室町期には、節分の夜か除夜の際に舟の絵が人々に分け与えられ、人々はそれを床の下に敷いて寝たあと、翌朝、川に流したり、土の中に埋めたりしていたといいます。そこで、おもいだされるのが、先ほどの五条天神社の宝船です。つまり、節分に授与されるという点です。しかも、描かれているのは、稲穂一束で、金銀財宝や七福神ではないということです。しかし、現代の私どもの感覚で、稲穂一束というのは粗末なものととらえがちですが、稲と日本人の長い付き合いを考えれば、金銀財宝の象徴として稲穂一束があるのではと思います。
では、なぜ、宝船に七福神なのか、これは七福神が福をもたらす神様であるという信仰からきているのでしょう。この信仰は室町期にほぼ確立しているようです。そして江戸期になって、全国に広まったといいます。京都学派の内藤湖南さんは、「日本文化史研究」で、今の日本文化は室町以降に確立したという趣旨のことを書いています。
以上、またまたつまらぬことを妄想してしまいました。それでは、皆さま、よいお年をお迎えください。
如庵