骨董亭如庵 第65回 | michael-thのブログ

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 今日の午前中に書いた第64回に「いいね」が4件もありました。ありがとうございます。悪乗りして、夜の部に行きましょう。
 ある時期、東京・中野区の新井薬師の第1日曜に開催される骨董市に行っていました。そういえば、今日、千葉・茂原の骨董市で車が暴走し、けが人が出たとのニュース。思いもかけない事故にまきこまれた方々には、1日も早い回復をお祈りします。
 さて、新井薬師から早稲田通りへ出る途中の上高田に功運寺があります。曹洞宗のお寺です。このお寺に黒羽藩主の大関増裕公のお墓があると知りましたので、いつだったか新井薬師の骨董市の帰りに立ち寄ったことがあります。
 お寺の説明版では、元々は江戸城近くにあったそうですが、関東大震災で被害がでたために、震災後の大正末期に中野の上高田に移転してきたそうです。お墓探しというのを気取った言い方で、「掃苔」というそうです。この意味は苔むした墓石を掃き清める位の意味でしょうか。そのころは私は永井荷風に凝っていました。荷風先生も、その日記で、散歩がてらにお墓探しをしばしばやっていたと書いています。私も荷風先生気取りで、功運寺に増裕公のお墓を探しにやってきたわけです。
 そう広くもない墓地ですが、あれこれ探した結果は、「大関家の墓」と彫られた墓石2基を発見しただけでした。大関増裕の名前は発見できませんでした。あとでわかったのですが、第11代藩主の大関増業も、このお寺に眠っていることがわかりました。この増業公も養子です。おもろい殿様ですので、この方のお話しは別の機会にお話ししたいと思います。
 さて、増裕公ですが、まだ、お話ししていなかったのは、大政奉還の数日後に亡くなることは、すでにお話ししましたが、その前後のことをお話ししましょう。
 幕末もいよいよ煮詰まってきた時期に、増裕公は徳川幕府の要職を務めていましたので、当然のことながら、幕府の行く末がどうなるか、薩長の動きなども承知していたでしょう。そこで、家臣2名を京都に派遣して、情報取集にあたらせています。勝海舟とは上司と部下、その関係がよかったのかどうかはわかりません。これは今でもどんな組織にもありますよね。上司・部下とはいっても人間は相性があります。腹をわって話せる関係か、そうでないか。果たして、2人の関係がどうだったかはわかりません。明治7年に、増裕公を偲ぶ石碑が建てられたときに、勝海舟は増裕公を偲ぶ文章を書いていますが、「氷川清話」など、明治になって、勝海舟が語った幕末から明治維新ごろのことを語っていますが、増裕公について触れてはいないようです。
 さて、増裕公の死因ですが、残された記録によれば、銃撃による頭部貫通といいますから、ほとんど即死だったと思われます。また、この日は慶応3(1867)年12月9日(新暦では1868年1月3日)、大政奉還は10月14日です。したがって、あらためて訂正ですが、大政奉還の数日後でなく、ほぼ2か月後です。鳥羽・伏見の戦いは翌年の慶応4(1868)年1月3日です。ついでにお話ししておくと、生まれたのは天保8(1837)年1月4日です。ちなみに勝海舟つながりでいえば、坂本龍馬は天保6(1835)年生まれで、暗殺されたのは大政奉還直後の慶応3(1867)年11月ですので、龍馬と増裕公はほぼ同世代なんですね。正確にいえば、龍馬が2歳年上の兄貴になるわけですね。坂本龍馬については私は司馬さんの「竜馬がゆく」に洗脳されています。今回、調べてみて、「へえっ」と思った次第ですが、別に同世代であることに意味はないでしょう。でも勝海舟つながりで、増裕公も、そういう人物がいることは知っていたのではないかと妄想するのはアマチュア歴史オタクの特権でしょう。
 話がそれたついでにいうと、幕末期において、洋学にめざめた人々がその出身に関係なく、幕府の要職を務めています。勝海舟は御家人の出身、増裕公は譜代大名・西尾家の出身です。ただし、イデオロギー的にはどうでしょうか。佐幕か公武合体か、勤王か。しかし、イデオロギーで判断するのは、歴史を見誤ります。増裕公は、1.5万石のちっぽけな大名家の当主です。今でいえば、中小企業の養子のイケメン若社長といったところですが、生まれはこれまた譜代大名とはいえ、3万石ほどの黒羽藩と同程度の小大名です。いちはやく洋学の時代であることを察知し、洋学を学び、北関東の黒羽藩の殿様になり、洋学の知識を買われて幕府の若年寄になり、幕府の軍事力をフランスの軍事顧問団のサポートを受けながら、近代化につとめたが、大政奉還後に急死した。簡単に増裕公の経歴をいえば、こんなところでしょうが。つまり、大企業の幹部でありつつ、中小企業の若社長という2つの立場を持っているというところが、勝海舟とは違うところです。ある意味、海舟のほうが気楽だったとも思えます。増裕公は、フランスの軍事顧問団から、海外情勢についても豊富な知識を得ていたと思います。ややフランス的バイアスのかかった情報だったかと思いますが。あるいは海舟のルートでイギリスの情報の得ていた可能性もあります。ただし、フランスは1870年つまり、大政奉還の2年後にはプロシャとの独仏戦争を戦うことになります。そして、当時のイギリスやフランスは帝国主義の時代であることはご存知の通りです。国益むき出しの時代です。そこは政治家・勝海舟はわかっていたと思いますが、はたして我が増裕公はどうだったのでしょうか。つまりエンジニア的なノンポリだったのか、海舟のような政治家的センスも持ち合わせていたのかどうか。この辺はさらに探っていきたいところです。
 話をもどして、残された記録では、慶応3年12月9日、何人かの家臣と愛用の13連発のウィンチェスター銃をもって狩猟にでかけます。気晴らしのためだったといいます。増裕公が死亡した時に着ていた洋服には血痕がほとんどなく、なぜか、洋服の左わき腹部分に切り開いた跡があるのみ。狩猟に同行した家臣の話では、銃の発射音が聞こえたので、銃声のしたほうに行ってみると、増裕公が倒れていて、左耳の上に銃弾が貫通していたといいます。銃の暴発による事故説、自殺説、暗殺説とあれこれ推理が働きますが、黒羽藩は、大急ぎで養子を迎えます。そして、西軍=官軍側につき、増裕公が整備した近代化した軍事力、それも農兵隊まで組織していたといいますが、その軍事力で、西軍=官軍の会津戦争で発揮したといいます。
 司馬さんの「翔ぶが如く」の最後で西南戦争の城山での西郷隆盛引きいる薩摩軍を攻める明治政府軍のことを書いています。そこに政府軍の先鋒を率いる黒羽藩出身の大沼渉大佐のことに触れていますが、大沼大佐も、実は増裕公が育てた家臣でした。
 
 何か、増裕公のことはモヤモヤした話になってしまったようです。幕末のスーパースター、坂本龍馬の死については、ある時期に、暗殺者は誰なのか、新選組、薩摩藩黒幕説など、あれこれと取りざたされました。司馬さんは「竜馬がゆく」のあとがきで、暗殺者に興味はないと簡単に書いていますが、今では見廻組説がほぼ有力になっているようです。まあ、今のところは繰り返しになりますが、新たな証拠がでない限りは増裕公の最期については、永遠の謎のほうがいいのかもしれません。その人の死因に関心をもつのは、あまり趣味がいいとはいえないかもしれませんし。司馬さんはある意味で大阪的合理主義の方ですから、その人物が歴史上でどのような役割を果たしたのかに関心があるようです。
 私も気分を変えて、明日あたりは黒羽藩のおもろい殿様・大関増業のことをお話ししましょう。

 それでは、また。

如庵