骨董亭如庵 第60回 | michael-thのブログ

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 11月最後の日曜日、東京地方は朝から快晴ですが、寒い朝です。               自転車で新宿・歌舞伎町にある花園神社へ行ってみました。ところがうっかりしていました。今年は今日11月29日の「三の酉」まであり、境内は熊手などの縁起物を売る店や有名な神田の天野屋さんの甘酒を売る店、「三の酉」にはつきもののべったら漬けの店、昔懐かしいセルロイドのお面を売る店、食べ物屋さん、さらには射的の店などで境内は露店だらけ。したがって、骨董市はお休みでした。拝殿にお参りし、お賽銭をあげます。
 さて、どうしようかと思い、自転車に乗っていたら、職安通りに出る手前の「鬼王神社」に出ました。こちらは花園神社と異なり、ひっそりとしています。「鬼王神社」は初めてではありません。年に1、2回程度は、自転車での散歩がてらに立ち寄り、お参りします。
 早朝とあって人もいないので、神社の由緒をじっくりと読んでみました。この地は大久保の聖地とされ、1655(承応2)年に土地の氏神様として稲荷神社が祀られたそうです。それから100年ほどたった1752(宝暦2)年に、この土地に住む田中清右衛門という方が、旅先で病気にかかったものの、快癒したので、それを感謝して紀州は熊野の鬼王権現を勧請し、稲荷神社と合わせて祀ったそうです。
 したがって、「鬼王稲荷神社」が正式名称になるそうですが、清右衛門さんが、病気が治ったのは鬼王権現のおかげだと、なぜ思ったのかとツッコミをいれたくなるところです。
 また、面白いのは願いをかなえるために「豆腐断ち」という風習があったそうです。この風習は「新編武蔵風土記」にも出てくるそうですし、私が尊敬する永井荷風さんの文章にもでてくるそうです。そういえば、荷風先生は、この鬼王神社から歩いて30分ほどでしょうか、抜け弁天界隈で育っています。鬼王神社の今の住所は歌舞伎町になりますが、歌舞伎町という地名は大正時代だったかと思いますが、そのころにつけられた地名です。また、新宿が今のような盛り場になったのは、関東大震災以降だそうです。その辺の詳しい話は紀伊国屋書店の創業者・田辺茂一さんのご著書に詳しくでてきます。あるいは作家の林芙美子さんの評伝をお読みください。林芙美子さんの旧宅が新宿区の中井にある理由もよくわかります。
 さて、なぜ鬼王神社かといえば、私見ですが、将門伝説が一番、当たっているのではと思います。というのは平将門の幼名が鬼王丸だからです。関東は坂東と呼ばれていた平安時代ごろから、西国とは異なる価値観が芽生えていたと思うのです。坂東武者というのは、アメリカの西部開拓時代のカウボーイのようなもの、あるいは農場主です。自己を守るため、あるいは土地を守るためには武を磨かなければなりませんでした。平将門の乱は、ある意味では西国的価値観への反発、反発ほ強くなないにしても、問いかけ・異議申したてだったと思うからです。とはいえ、田中清衛右門という具体的な名前がでてくるのも興味深いところです。
 話が理屈っぽくなりました。拝殿の傍らに大きな甕がありました。なんだろうと思って、説明板を読んでいたら、「天水窟」という仕掛けで、「水琴窟」の原型だそうです。水琴窟は、小堀遠州の発明になります。最近、茶道・遠州流の今のお家元のご著書を読んだのですが、「水琴窟は遠州が創始した」旨のことが記されていました。こんなところで遠州さんに出会うとは思いませんでした。ただし、鬼王神社の水琴窟は平成13年につくったものだそうです。
 鳥居近くの水鉢にまつわるお話しは、岡本綺堂さんの「半七捕物帖」にでも出てきそうなお話しです。
 大久保には、ラフカディオ・ハーンの終の住処があったり、漱石の「三四郎」でも、主人公の郷里の先輩である野々宮さんが住んでいたりします。
 境内を出ると職安通り、大久保通りは今では、韓国系を中心にアジア系やトルコ系、インド系などの店が立ち並ぶ、ハイブリッドな町になり、鬼王神社の境内の空気感とは別の時間が流れているようでした。わずか100年というべきか、100年もたつと変わるということなのか、それも鬼王神社の功徳とでもいうべきでしょうか。あっ、功徳は仏教用語ですね。ご利益(ごりやく)でしょうか。

如庵