骨董亭如庵 第58回 | michael-thのブログ

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 今朝は5時30分過ぎに起きたのですが、カーテンを開けて窓の外を見て、驚きました。一面、ミルク色です。東京地方では珍しい霧です。
 さて、霧とは何か。雲と同じく空気中に小さな水滴が浮かんで白くなる状況です。似たような気象で靄(もや)というのがあります。では霧と靄の違いはというと、霧は1キロ先が見えない濃いもの、靄は1キロ先が見える場合だそうです。
 靄で思い出したのが江戸時代後期の文人画家・高久靄崖です。「たかく・あいがい」と呼びます。1796(寛政8)年に下野といいますから今の栃木県の北部の那須地方に生まれ、1843(天保14)年に江戸で亡くなっています。今年の夏、骨董市で「高久靄崖真筆」と表紙に書かれた折り畳みの画帳を偶然、見つけました。そのときは何と読むのかわかりませんでした。「たかひさ・・・?」、でも妙に魅かれるものがあって、手にとってみました。様々な石や岩を描いています。業者さんに聞いてみると、「今日、もってきたばかりで、値付けもしていない。もう1週間待ってくれませんか」とのこと。
 自宅に戻って、高久靄崖のことを調べてみました。下野の出身で、幼いころから絵がうまかったようで、馬方や煙草職人をしながら、黒羽藩に仕える画家や壬生藩の御用絵師に書画を学びますが基本的には独学だったようです。もちろん、「たかく・あいがい」と呼ぶことは、最初にわかりました。また、下野の鹿沼では池大雅などにも私淑したようです。仙台にも修行に出たようです。江戸時代というのは面白いですね。学問でも文人画でも、地方にそうした才能ある人たちがいたのですから。
 1823(文政6)年、靄外27歳のときに江戸に出ます。彼のパトロンとなったのは、同じ下野の出身の豪商の大橋淡雅でした。同郷ですから、靄外のことは知っていたのでしょう。この淡雅はかなりの商売上手だったようで、古着屋から呉服商、さらに真岡木綿の問屋、両替商と手広くビジネスを拡大し、江戸を中心に関東一円に50以上の店を持ったといいます。それでいて、書画コレクターでもあり、書の鑑定家で渡辺崋山や佐藤一斎などと交流したそうです。著書の「淡雅雑著」では「余りあれば必ず施し、人を富まして自ら富む」といいことを言っております。実際、天保の飢饉では私財を投じて、食物に困っている人を助けたそうです。椿椿山が描いた淡雅の肖像画を見ると、これといった特徴のない顔立ちですが、誠実な感じを受けるお顔です。
 話は靄崖からどんどん離れていくようですが、離れついでにいうと、10年ほど前に、渡邊登という署名と印の押された墨で書いた絵が手もとにありました。渡邉崋山は渡邊登が本名です。画題は「韓信の股くぐり」。「史記」の有名な故事を描いたものです。その頃は、まだ骨董初心者でしたが、渡邊崋山といえば、「蕃社の獄」で切腹を命じられた江戸末期の有名な文人画の大家です。本物・贋物は問わない、懐具合と自分の感性があえば、譲ってもらうというのが私の流儀です。そこで譲ってもらって、飾っていました。結構、大真面目に崋山の印鑑を調べたりしました。3年間ほど部屋にぶら下げていましたが、いつのまにか処分してしまいました。
 さて、話を靄崖に戻しましょう。江戸に出た靄崖は豪商・淡雅のサポートを受けながら、文人画をかきますが、気位が高く、儲けのために絵を描かなかったので、生活は貧しかったようです。妻帯もしていません。しかし、その人脈は田能村竹田、谷文晃、渡邊崋山と著名な文人画の大家ばかりです。つまり、人付き合いは悪いが才能はあったということでしょう。
 30歳を過ぎると、北陸や東北、関西にも出かけています。つまり、画才があれば、行く先々で絵を描いたり、その人脈で泊まるところや食べることには困らなかったということでしょう。武者修行ならぬ画業修行ということでしょうか。ここにも江戸期の文化の成熟ぶりを見ることができます。それで思い出しましたが、靄崖の下野時代に絵を習った黒羽藩というのは俳人の芭蕉が「奥の細道」の途中、この黒羽に2週間ほど滞在しています。また、黒羽藩というのは大関氏という中世から、この地で活躍した土豪ですが、戦国時代を生き残り、1万3千石ほどの外様大名としてサバイバルに成功しています。江戸末期から幕末に殿様に優秀な養子を迎えています。大関増業と大関増裕ですが、明治維新の際にもうまく生き残ります。話がますます靄崖から離れますので、そうした話は別の機会に。
 靄崖ですが、彼の肖像画も残っています。田舎親父風の風貌ですが、鼻が高いのが印象的です。
彼の号は靄崖以外にも、石窟、如樵、疎林外史、晩成山房などと、石にちなむものや、疎とか外とか、なんとなく拗ねものめいた臭味がします。
 かくして、天保14(1843)年、48歳で江戸で死去しますが、葬儀を仕切ったのが大橋淡雅と坂下門外の変にもかかわり、宇都宮藩とも関係のある儒学者で尊王派の大橋訥庵だったそうです。
 さて、「高久靄崖真筆」ですが、1週間後に、納得のいくお値段で譲っていただきました。そして今朝の霧というか靄で、「高久靄崖」の石や岩を描いた絵を思いだした次第です。

 さて、明日は代々木公園で骨董市があります。さてどうしようかなと思っています。

如庵