今朝は、東京地方は小雨でした。護国寺の骨董市は開催されているのか、気になり、会主さんの携帯電話に連絡してみたら、今日は休止とのこと、がっかりです。
おとといのブログで、サッカーW杯アジア地区2次予選で予選の楽しみ方を書きましたが、もっと大事なことがありました、FIFAをめぐる賄賂疑惑のニュースや、ロシアの選手たちのドーピング疑惑など、スポーツをめぐる腐敗の話です。
あれこれ言うよりも、これらの騒動をめぐり、私が目にしたニュースなどで印象に残ったことを書きます。
まずは、2つの疑惑の発端となったのが、BBCのドキュメンタリー番組、そしてドイツのドキュメンタリー番組だったことです。いずれもジャーナリズムの調査報道のすごさを感じさせます。
FIA本部のあるスイス・チューリッヒ市民のインタビュー、「チューリッヒに住む市民なら、みんな知ってるよ」。
あるFIFA理事の話、「賄賂はいけないことだと認識している国は30か国くらいだろう」。
そして、司馬良太郎さんの、「明治日本では官僚や政治家は一部の例外はあったが、金銭的には、清潔だったことが、近代化に成功した原因ではないか」という趣旨の文章。余計なことを言えば、その一部の例外が、茶人で知られる井上世外こと井上馨です。
さて、今日はマグカップの話をします。取っ手のついたカップのことです。マグカップは和声英語、mug=マグで通用するそうです。金属製か陶製で蓋がなく、取っ手がついているジョッキのことです。また、俗語ではバカ、あほう、あるいは悪党、ごろつきなどロクな意味がありません。さらには強盗が暗闇で人を襲う、しかめつらをする、大袈裟な表情をするなどに意味もあるようです。また、がり勉する、詰め込むなどこれまたロクでもない意味もあるようです。
私が愛用するマグカップは、アメリカのホテルなどに置いてある厚手で取っ手も厚みのあるマグカップです。私の手は日本人男性としてもけっして大きくはありませんが、日本製の薄手で取っ手も薄手のマグカップは頼りない感じです。アメリカで手に入れた5個ほどの厚手のマグカップを日常では使っています。
マグカップの形はきわめてシンプルです。筒状のカップに取っ手がついているだけです。しかし、機能性は抜群です。コーヒーや紅茶はもちろん、ミルクを飲むにも、日本茶でも、ときにはスープでもすべていけます。取っ手に厚みがないと、なにやら頼りない感じです。
取っ手で思いだしましたが、私の知っている業者さんで、自動車メーカーのエンジニアとして、ヨーロッパに長く駐在していた方がいます。ヨーロッパに駐在しているときに、江戸や明治のころに日本から輸出された陶磁器に魅せられたそうです。あるとき、取っ手のないカップとソーサーを譲ってもらいました、その業者さんによれば、有田焼でオランダで手にいれたそうですが、当時は紅茶を飲むのに使っていたとのことです。取っ手がなく、ソーサーにわざと紅茶をこぼして飲んだともいいます。面白いですね。ほんまかいなと思いましたが、その語、「茶の世界史」を読んでいたら、最初は取っ手のないカップとソーサーで飲んでいたという記述を見つけました。
今はあまり見なくなりましたが、30、40年ほど前まではアメリカ開拓時代を舞台にした西部劇が映画やテレビ映画として、人気がありました。主人公が馬で旅をしていて、夜、野営すると、たき火をしながら、食事をするシーンが出てきます。そのとき、主人公がコーヒーかスープを飲む容器は、まさに金属製の、多分、ブリキでしょう、マグです。つまり、ソーサーなどは余計です。そこで取っ手をつけたのではないかと、これは私の妄想・想像です。
あるいは、ビールといえば、ドイツかと思いますが、ドイツ製のビール・ジョッキは蓋がついています。このビール・ジョッキもマグといいます。その蓋は余計なものだ、とってしまえということで、今、私たちがイメージする形に落ち着いたのではないかとも思います。
ブリキのカップといえば、アーリーアメリカンのものでブリキで作った動物をかたどった玩具があります。私もひとつ持っていますが、これもアメリカの西部開拓時代に、父親が幼い子に与えた手作りの玩具だそうです。
たかがマグカップですが、私はそのシンプルさと機能性が気にいっています。なぜ、あの形にたどりついたのか、あれこれと妄想してみました。
明日も天気予報では午前中は雨のようです。大江戸や靖国神社の骨董市は開催されるのか、やや気になります。
如庵