第7回の「骨董亭如庵」です。朝晩はずいぶん、涼しくなってきましたね。みなさん、風邪などひいていませんか?
さて、今日は、大江戸骨董市での体験から、話を始めましょうか。タイの女の子たちが、プラスチックの箱に入った商業こけしを見ていて、私が思った、感じたことを昨日のブログで書きましたが、そこで得たヒントから、ある時期、私も1個100円からのプラスチックの箱あさりに凝ったことがあります。商業こけしをあさっていたときのことです。商業こけしの山の中から、妙なものが出てきました。一見すると鼈甲細工のようです。それは、粋なお姉さんが日傘をさして、人力車に乗っており、車夫が人力車を引いているという、高さ5センチ、長さ10センチ弱の手の平に乗るような小ささのものです。手にとってみると、完品で傷はありません。それは鼈甲ではなくセルロイド製のものでした。面白いと思い、即購入、200円だったと思います。調べてみると、昭和20年代あたりに、東京は上野周辺の業者が製作していたようです。その業者が出していたチラシには、まさに、この人力車と同じものが写っていました。象牙の取引はある時期から禁止されました。そこで、ここからは推測ですが、昭和20年代というと、まだ日本の高度成長は始まっていません。そこで、海外向けか、あるいは日本の観光土産として、象牙に似せたセルロイド製の、日本の風俗を描いた、こうしたものが作られたのではないでしょうか。
昭和20年から昭和26年まで日本はアメリカ軍の占領下にありました。この時期に海外向けに輸出された焼物は「オキュパイド・ジャパン」と底の部分にプリントされているのは有名ですが、こうしたセルロイド製の観光土産も、高度成長の前には作られていたのでしょう。焼物と違って、輸出するというよりも、外国人向けの観光土産だったのでないでしょうか。あるいは、非常に軽いものなので、輸出もされたのかもしれません。その後も、私の手元にあるものよりも、ワンサイズ、大きいものも骨董市で見ましたが、それは傘がありませんでした。人力車発見から2,3か月後には、七福神をかたどったものは、ある骨董市で見かけ、うれしくなって購入しました。業者さんは戦前のものだと言っていました。
こうしたものは骨董といえるのかどうかは微妙なところですが、大袈裟にいえば、ある時代の日本が何でメシを食っていたかを象徴するものといえるかと思います。日本セルロイド組合といった組織はあるのでしょうか。セルロイドは、ある時期までの子供のおもちゃの材料として使われていましたが、火に弱いという弱点があります。
同じように、その時代にしかないというものでいうと、統制陶磁器も、そうでしょうか。今年は戦後70年ですが、日本政府は日中戦争から太平洋戦争を戦う中で、統制経済という政策を打ち出します。つまり、戦争を続けていく中で、政府や軍がものを作るための資源を管理するというものです。そうした時期でも、陶磁器は作られていたのですね。ただし、陶磁器をつくるには土だけではなく、火、つまりエネルギーが必要です。石油や石炭などのエネルギーを生み出すものは近代戦には欠かせないものです。私の手元には、なんということもないバラの絵が描かれたコーヒーカップと花活けがあります。カップの底には「岐」に3桁の数字が記されています。一方、花活けは「万」だったと思いますが、漢字に同じく3桁の数字がこちらも記されています。「岐」は岐阜、「万」は万古焼を意味します。どういう人が使ったのでしょう。もしかしたら、軍隊で使ったのかもしれませんし、お金持ちの家で使ったのかもしれません。
セルロイド製の人力車や七福神、統制陶磁器、骨董ともいえないものかもしれませんが、ある時代の日本を雄弁に語ってくれるものといえるんじゃないでしょうか。
骨董というのは、大雑把にいえば、「がらくた」かもしれません。しかし、考古学の世界で貝塚と大層にいいますが、あれはゴミ捨て場です。しかし、ゴミ捨て場だからこそ、あるいはガラクタだからこそ、その時代の本当の姿を教えてくれる手がかりになるともいえるのではないでしょうか。
週のはじめから、固い話になってしまいました。でも、箱書きのきちんとした伝世品から、美術品、こうしたセルロイド製品、統制陶磁器まで、その幅広さ、奥の深さが、骨董の醍醐味であり、面白さだと、私は思います。
如庵