シベリア鉄道乗車中に暇だったから書きました〜

今日はロシアの鉄道 とりわけシベリア横断鉄道についての歴史についてお届けします_φ( ̄ー ̄ )

世界トップクラスの旅客輸送量 貨物輸送量を誇るロシア鉄道ですが 近年輸送構造の変化で輸送量が大幅に減っています(´-ω-`)

営業環境も徐々に厳しくなり 2001-2010年にかけて鉄道構造改革計画が実施され これによりロシア鉄道は鉄道省から分離され 2003年かたロシア政府が100%出資する株式会社へ移行しましたΣ(゚д゚lll)

体質改善の努力も進められ シベリア鉄道経由でナホトカーロシア西側諸国までの貨物輸送所要時間を10日から7日へ短縮したり 海上輸送と一体化した貨物専用急行列車 ブロックトレイン などの運行も始まり ネットでチケットを購入できるまで新たなサービスを次々と打ち出しています

ロシア最初の鉄道は帝政時代の1837年9月30日 当時の首都サンクトペテルブルクと皇帝の夏の別荘があったツァールスコエ・セローの間25km で開業されました エカテリーナ宮殿がある場所です✨
建設にはオーストリア人技師が指導にあたり 軌間は1828mmでした

その次に建設されたのが1851年11月1日にサンクトペテルブルクからモスクワまでに開通した ニコライ鉄道 これには皇帝ニコライ1世が地図上に定規をあてて両都市間に一直線に結び そのまま実際に線路を敷設させたという有名な話があります( ̄▽ ̄;) 

地盤とか完全に無視なんですねっ(笑)

この時の軌間はアメリカ人技師の推奨によって1524mm ←現在は1520mmと表記 が採用され これがロシアの鉄道で最も普通に見られる線路の幅となりました


世界的な鉄道の軌間の基準は1435mm 中途半端な数字にも思えますが 鉄道発祥の地イギリスでこの軌間を採用し 多くの国々がここから資材などを輸入したため 特にヨーロッパは大部分でこの共通の軌間を採用 列車を容易く乗り入れさせ 経済 社会 文化の交流と発展に重要な役割を果たしました

ところがロシアでは鉄道建設の30年ほど前 フランスのナポレオン軍に侵攻され痛手を負った経験上、ヨーロッパ各地で採用されていた標準軌間を導入しませんでした それは他国からの直通が可能になると国防上不利である という理由を勘案したからで 1828mmと1524mm軌間をテストし 結果的に1524mm軌間が採用されました

ところがこの結果が他国と多くの陸続きの国境を接するにも関わらず その軌道幅が同じフィンランドとモンゴルを除いて 東欧諸国はイラン 中国へもそのままでは直通運転ができず 国境駅で台車を交換し 貨車は荷を積み換えるという 非常に手間のかかる状態となっています( ̄▽ ̄;) 

なんと勿体ない 同じ軌道であればもっと早く国境を接する中央アジアなども発展したでしょうに(´-ω-`)


鉄道の本格的な近代化は1955年に発表された鉄道電化15ヶ年計画から始まりました 1970年まで主要幹線の4万kmを電化し 残りをディーゼル化する という計画は順調に進められ 1960年代になってからは年平均2000km以上の急ピッチで架線は延ばされていきました
1961年の時点でシベリア鉄道はモスクワからイルクーツクまでの電化が完成し 世界最長の電化区間を誇ることとなります
同時に1950年代半ばからディーゼル機関車が大量生産され電化と相まって1970年代半ばまでにほぼ前線で無煙化を完了しました


シベリアに対するロシアの進出は16世紀に始まり 17世紀前半にはすでに太平洋岸まで支配域が及んでいます 1689年 ロマノフ王朝のピョートル大帝は中国の清王朝との間にネルチンスク条約を締結し 極東地域でロシアと中国の国境が初めて確定され 貿易が始まりました 
1727年にも中国とキャフタ条約を結びモンゴル地方の国境を確定しています その後中国との間で1858年アムール川←黒竜江 以北をロシア領とした条約 1860年には沿海州をロシア領とする北京条約を結び今日の国境がほぼ形成されました

1873年にウラジオストク港を開き 太平洋への進出拠点とし  この開港に際してサンクトペテルブルク又はモスクワなどとの連絡 補給手段が検討されました
1851年にサンクトペテルブルクーモスクワ間の鉄道が開業し その成果から広大なシベリアを横断して東西を短時間で繋ぐには鉄道利用が最も効率的で優れているとする結論に達し ここにシベリア鉄道建設の構想が固まりました

シベリア鉄道の正式名称は The trans Siberian railway =シベリア横断鉄道 建設当時は
イルクーツク以西を西シベリア鉄道
イルクーツクーハバロフスク間を アムール鉄道
ハバロフスクーウラジオストク間をウスリー鉄道
と呼んでいました

シベリア鉄道の計画は1956年に初提案されましたが 建設は財政難の為見送られました 
ところがウラジオストク開港後シベリア開発と極東に戦争が起こった場合軍隊を輸送する必要性があったため1875年頃にモスクワからシベリアに向けて建設が開始されました
当然シベリアの過酷な自然環境のために建設の進み具合は極めて悪く 当時の皇帝アレクサンドル2世はこれに業を煮やし本格的なシベリア鉄道の着工を命じる新書を作り 1891年5月31日 皇太子ニコライをウラジオストクに送って起工式が催されました

建設には多数の困難が待ち受けており レールなどの鉄製資材やセメントはヨーロッパから輸送し 枕木や駅舎の建築に使う木材は500kmも離れた南の森林地帯から運ばねばならず 夏の気温が30度以上になる一方で冬はマイナス50度にまで下がり 加えて虎 熊 狼 マラリア蚊 やアブが労働者を苦しめました その多くはロシアの流刑因とイタリアからの出稼ぎ労働者でした


こうした悪条件の中 西からの鉄路は1895年までに現在のノヴォシビルスクに達し 他方東ではウラジオストクーハバロフスクとの間の鉄路が1897年に開通し その後イルクーツクから線路はさらに延ばされ 1900年にはチタの東 カリィムスカヤまで及びました

未開通区間の沿線地域は夏でも表土が凍り 洪水も発生し 疫病も多い地域であったので 暫定措置として中国の満州に迂回線を建設する事とし 中国と交渉に当たりました そこで設立されたのが 満州里ーウラジオストクを結ぶ東清鉄道で 期間もロシアの標準軌である1524mmを採用しました
1897年 ハルピンから東西に向かって着工され 1901年にはウスリー鉄道との接続駅になるポグラニチナヤ 翌年にはアムール鉄道との接続駅になる満州里まで開通しました 
1903年までに東清鉄道と接続するロシア側の連絡線が完成し シベリア鉄道は昨日として一応全通したことになりました


1904年 日露戦争が勃発 シベリア鉄道はヨーロッパ側からの兵員及び武器弾薬を輸送する軍事的な大動脈となりました 

しかし未開通となっていたバイカル湖岸の区間がネックとなり この区間は砕氷能力を持つ船による輸送が行われましたが砕氷船も使えない厳冬期には3000台以上ものソリで物資を輸送し 兵員は徒歩でバイカル湖を渡るという方法がとられましたが とても追いつかず 氷上にレールを敷いて車両を運んだりもしましたが 多くの物資や兵員はイルクーツクでの足止めを食らう結果となりました
大急ぎで勧められた突貫工事 1904年9月25日 シベリア鉄道はついに全線が結ばれることになったのです

それでも12000kmに及ぶ単線の鉄道において 通常の運行方向で戦時の軍需輸送を行うには不十分でした
このため列車の運転を東行きのみの一方通行とし ヨーロッパ側から極東への軍需物資輸送に使われた貨車は回収せずに破棄する という手段すら取られました
当時ロシアの工業では小型の貨車を生産する能力がなく 貨車をイギリスかやフランスから輸入していました そうした トラの子 も使い捨てにしたのです

しかし貨車を牽引する機関車まで廃棄するわけにはいかず これは西側に回送しています

3等寝台は子供達のジャングルジム💨


やがてロシアは日露戦争に敗北し 東清鉄道の長春ー旅順間を日本に譲り渡すこととなりました このためカリィムスカヤからハバロフスクに至るアムール鉄道の開通が急がれました 

この区間は1916年に完工し ここにほぼ現在の姿のシベリア鉄道が完成しました 

もっとも最後に完成した区間は大興安嶺山脈越えという難関であり かつ工事時期が第一次世界大戦中であり さらにロシア革命の直前で線路状態は極めて悪いものでした それでもモスクワとウラジオストクを結ぶ直通急行列車の運転が開始され10日と8時間50分で全線を走破出来るようになりました

1917年にロシア革命が起こり シベリア横断急行は一時運転を中断しましたが後に再開されました
日本〜ヨーロッパ間の連絡も1927年に復活しています 1939年には全線複線化の工事が完了しました
シベリア横断急行の運転は1941年に第二次世界大戦開戦のため再び中止となり 戦争はソ連の 特にヨーロッパ側地域に甚大な損害を与えました このため戦後はウラル以東に移った工業の中心と これを結んだシベリア鉄道がヨーロッパ部の復興に大きく寄与したことは言うまでもありません

シベリア横断急行が戦後も再び冷戦によって中断されていましたが 1966年に再び外国人への乗車が認められるようになりました

列車は ロシア号 と名付けられ モスクワとウラジオストクから隔日で発車しています 2016年データで ロシア号は全線 9259km を6泊7日で走り 表定速度は時速62kmでした ちなみに1940年代の貨物列車は平均時速20km!

1953年から始められた電化は半世紀を費やして2002年11月にようやく全ての電化が完了 ソ連崩壊後は長らく停滞を余儀なくされたシベリア鉄道も近年はシステムの近代化 車両のリニューアル またアジア地域の経済発展を背景に国際貨物輸送ルートとして再整備も始められています

乗客同士の社交場 通路


さて このシベリア横断鉄道の北側に
もう一本鉄道があるのをご存知でしょうか?
バイカルーアムールの略でバム鉄道と言います
シベリア鉄道概ね中間点のタイシェトからシベリアの広大な永久凍土のタイガ地帯を東進してタタール海峡に至ります 全長は4300km
この鉄道はいくつもの路線に分かれています 支線としてヤクーツクーアムール・ヤクーツク鉄道が建設中です

ロシア革命の後何年か経つと シベリア鉄道も輸送力が不十分となり シベリア鉄道東部区間の輸送力を補完する目的と シベリア鉄道は国境に近いという戦略的弱点があったため 1930年代の初めに東部 極東地域に 第2シベリア鉄道 としてバム鉄道の建設が開始されました

終点のヴァニノから南へ30kmほど下ったソヴィエツカヤ・ガヴァニには旧ソ連海軍太平洋艦隊の基地が建設され その補給という軍事的な目的もありました


1937年から建設が開始されましたが 着工数年後に勃発した独ソ戦争とそれに次ぐ第二次世界大戦で中断 
終戦直後東端部のコムソモリスク・ナ・アムーレ〜ソヴィエツカヤ・ガヴァニ間の約500kmが完成
西部地域の約700kmも1950年代中期に営業を開始しましたが中枢部約3100kmの建設が本格化したのは1974年からでした
この区間は永久凍土をタイガが覆う人跡未踏の辺境で 冬は気温がマイナス数十度まで下がる酷寒の地であり 工事は困難を極めました 
本格的工事着工後10年を経た1984年9月に本線の建設を終え全区間が開通し 同年10月27日ティンダでバム鉄道の開通式が行われました 1988年から正式に全線の営業運転が始まりました
複線区間は西部約700kmだけで、他は殆どが単線 電化区間は西部のタイシェト〜タクシモ間の約1500kmだけで残り2/3は未電化の為ディーゼル機関車が列車を牽引します


全列車の90%が貨物列車という産業路線で全線を直通する旅客列車はなくティンダとコムソモリスク・ナ・アムーレで乗り換えなければなりません

この他にもサハリン鉄道について書こうかと思いましたが やはり自分が乗ってからでないと実感が湧かない…と言うわけで いつかサハリンを旅することがあれば サハリン鉄道について書いてみたいと思います なにせ日本製の車両が走っていますから 想いも一入です✨

シベリア横断鉄道の🚃停車駅にはかなりの確率で使われなくなった蒸気機関車が展示されています

初日の宴会で見張り役してた豪快パパさんの息子さん、ジュニアのプーシキン 
笑顔が可愛かったな〜(〃ω〃)❤️

列車好きな鉄オタさんにはヨダレものの車種も沢山ございます わざわざ博物館へ行かずとも目にする機会が多々ありますのでお見逃しなく♪( ´▽`)