市民感情 | Michilog ver.2

市民感情

数日前から話題になっている

「耳かき店員」事件の裁判員裁判。


検察の死刑求刑に対して、

東京地裁では無期懲役判決をだした。


さまざまなところでその特集をやっていて、

それを見ていると、

(これは完全に私的な考えですが)

今回の無期懲役判決は十分に理解できる。


もちろん遺族側からすれば

何の否もない家族を2人も殺されたわけで

「死刑で当然」というのはよーくわかる。


動機も非常に身勝手で、許されない行為であることは

まちがいない。


しかし報道でみる限り、

・後悔し、深く反省している

・長年のまじめな勤務歴がある

・前科もなく、更生の可能性がある

というような被告の様子から判断されて

無期判決になったようだ。


いわゆる「永山基準」とよばれる考え方に照らし合わせると

今回の裁判員のみなさんが死刑を選択できなかったことは

共感を示さざるをえない。



「死刑もやむを得ない」とまで、言えるのか。。。。。。



「市民感情を反映させる」目的で日本でも導入された裁判員裁判ですが、

死刑が求刑されるような裁判でジャッジを求められる市民に

どれだけのプレッシャーがかけられるのか。。。。


別な裁判で裁判員を担当した女性の方が

もし自分が受け持った裁判で死刑求刑されることがわかったら、

その時点でなんとしても辞退すると思う、

とインタビューに答えていた。


自分だったらどうだろう。


今回の裁判員の男性も

「最後は自分の気持ちに従った」と言った。


「市民感情を反映させる」ということは

要するにそういうことだ。


判断しなければならない事柄が重要であればあるほど

「自分の判断が正しかった」などと

自信をもって思えるなんて、きっとないんだと思う。



いまは、この「市民感情」という考え方が

どんな世界でも重視されている。


比較するのもおかしな話だけれど、

うちのお祭りの審査でも今年から

「市民目線」を合言葉のようにして、

多くの一般市民に審査員をしてもらった。

もちろん初めて観る、と言う人もいる。


私自身も審査員をやったことがあるけど、

「そんな世界」でさえも、

真剣にやっている踊り手の表情をみたら

それに点数をつけることの重さに

ちょっと重圧を感じるのだ。


「本当に私なんかの感覚で、

この人たちのやってきたことを判断して

結果を左右していいのか?」と

自問してしまったりする。



それが、まして「人の命」がかかったことを

判断しないといけない場面だと思ったら・・・


あるいは、被告が容疑を否認しているとしたら、

「冤罪」の可能性を踏まえて判断を迫られる。


裁判員を務めた人たちのインタビューを読んでいると

本当にいたたまれなくなってくる。



でも・・・近い将来、自分が裁判員になるかもしれない。

(現に、近い後輩が、裁判員の通知がきた。

実際に裁判員指名があったのかはわからないけど)


今回の裁判で、そのことを急に意識するようになって

札幌地裁の裁判傍聴制度を調べてみた。


札幌地裁では、1日の裁判数は10前後らしいですが、

東京では1日100件も当たり前だそうだ。


一般的な裁判であれば、

特に事前連絡せずに、直接法廷に行って傍聴できるらしい。

法廷が開かれているのは、おもに平日の朝から16時頃まで。

(それじゃあ、仕事あるからなかなか行けないけど・・)


機会さえあれば、一度傍聴にいってみようと思っている。


「市民感情を反映させる」裁判、

市民ひとりひとりが改めて意識をすること、

そして裁判の過程が今以上にオープンになることが

やはり大事だと思うのです。