あれから一度も般若の顔になることもなく、穏やかなお顔のじぃちゃん先生に通院すること、1ヶ月…、若い体の回復は目覚ましく、ポッキリ折れた左手は見事完治!楽しい春休みを過ごし、1学期も後僅かというある日。遊ぶ約束の友達の家に自転車をかっ飛ばしていた私をまたまた悪夢が襲ったのである。舗装道路を左に曲がり砂利道になった瞬間、大きな石に乗り上げ見事転倒!ひっくりかえった左手は乗り上げた石に見事命中…耳元で(ゴギッ)と世にも不気味な音が(;_;)かくして又々じぃちゃん先生の元に駆け込む事態に。「なんだ、また君か?」の温かいお言葉と半年振りの般若のお顔に今回は(フギェ!)と訳の分からん呻き声で答え、骨折の痛みよりも今夜落ちるであろう父親の雷にびびりまくる六年生の夏なのであった。夏の骨折はするもんじゃない!痛みよりも暑さで包帯の中は汗疹でヒリヒリ。しかし、ほねつぎさんは石膏でガチガチのギブスではないので幾度にきれいに汚れを拭いてくれるので助かった。しかし、その時に塗る薬が何回見ても、水で溶いたメンソレータムだし臭いもそのもの。しかもそれを塗る道具は絵筆だし。一度だけじぃちゃん先生にその薬はなんですか?と聞いたら一瞬、般若に変身したので二度と聞けなかった。こうして小学生最期の夏休みは通院で終わるのである。この後は暫く健康に過ごす日々が続くのだが、忘れた頃にやってくるのが、厄である。それは三年後、中3の春に訪れた…。
右手骨折のあの日から三年後、私の人生はガラリと変わってた。まず小2の骨折は初めてではなくヨチヨチ歩きの時に敷居で転んですでに右手は二度目だったことが判明していたのと、慌ててかけこんだ大きな病院がある街に親の離婚を期に引っ越したこと。新しい環境にも慣れ、友達も出来たある冬の日。あの当時子どもの間で流行ったミニスキーなるものを知ってます?プラスチック製の長さは45センチ位で赤と青の二種類。颯爽と滑る筈が蹴躓いて勢いよく転倒、ぶつけた頭もかなり痛かったけどなにやら懐かしい痛みが左手に…。泣きながら家に帰り服を脱いでみると明らかに腕の真ん中辺りが段違いになってる!そんな時に頼りたい母親がいない人生になっていた私は電話帳で必死に「ほねつぎ」なるものを探して家から一番近い所に駆け込んだ。かなりじぃちゃん先生だったが、事情を話すと先ずは折れた骨を繋げてあげようと穏やかなお顔で処置室なる所に私を連れていき、横になりなさいと言った。三年前の真っ暗な部屋を想像していた私は畳に横たわり今度は痛くなさそう…と安心していると、じぃちゃん先生は腰を下ろすと私の左脇の下に足を入れてきておもむろに左手を掴み、気合い一発!「はぁ!」と「ギャァ!」が同時に処置室にこだましたのである。三年前よりは身も心も成長した私は気合いとともに般若のような顔になったじぃちゃん先生におののきつつも、とりあえず泣くのは我慢できたが、さすがに歩いて帰る気力はなく、近所に住む伯母に助けを求めて迎えにきてもらってお金も払ってもらい、帰宅。夜遅くなって帰ってきた父親にお叱りを受けながらもなかなか頼もしく成長した我が身を自分で誉めてあげたのである。但しやはり冬場の骨折は大変である。夏ならシャツ一枚何とか身に付けて格好つくが、冬は着るものが多い。面倒臭いなんてもんじゃない。しかもズボンも厚手なので緊急時に片手でパンツまで下ろすにはかなり大変。ただあの当時一般家庭ではポットン便所が主流だったが、新しい家は団地だったので水洗式だったのが不幸中の幸いというべきか…。そして次の事件はなんと…翌年の夏に起きてしまうのである…。
45になり今までの病歴を振り返って思い出すと、痛かった記憶と共になにやら随分と面白かったエピソードもあるのに気が付いた。ハッキリと記憶に残っているのは小学二年生の時。あの当時は道路も舗装されてはいたもののかなりの凸凹もあり、まだ自転車に乗れずビンボーな家だったので買ってもれえなかった私は友達の補助輪付の自転車を颯爽と乗り回していた。近くのお寺までの一直線の道を快調に飛ばして走っていた時、ガクンっと補助輪が穴にはまりそのまま田圃にダイビング!頭から突っ込み、右手骨折。ド田舎だったので一時間かけ街の大きな病院に駆け込むといきなり真っ暗な部屋に。ナニナニ?とおもった途端に折れてぐにゃぐにゃしてる腕をおもいっきり引っ張られた!ギャァ長音記号1という叫びと共に記憶はなく、気付いたらガチガチにギブスを巻かれてた。帰りの車では、痛いのと、こっぴどく怒られて悲しいのとで泣き泣き。一週間もたつと痛みも和らいだものの、楽しみにしていた初めての習字の授業は左手でかいたのでミミズがのたくってるようにしか見えず、クラスの皆からも笑われ、先生からも傑作だと誉められ親からは戒めだともちかえった作品を壁に張られた…。こうして私の数々の病歴は始まりをつげたのである…。次回は五年生の冬。