今日は、息子とおでかけしてきました。
「冬休み 親子・友達と学ぼう ”よしあきくん”」
@最上義光歴史館
まずは、義光(よしあき)公と駒姫のフィギュアの前で記念撮影
目方を数字で書いてもピンと来ないかもしれませんが、

最上義光歴史館は、いつもそばを通り過ぎているのに
ついぞ今まで足を踏み入れたことがありませんでした。
今回このセミナーに参加したのは、
息子が小学校の「義光スクール」で
400年前の山形城主・最上義光公に興味を持ったから。
息子からそんな義光公のあれやこれや、
いろいろと聞いているうちに
だんだん私も興味が湧いて来てました。
記念撮影の後通された研修室のようなお部屋で
パワーポイントの画面を見ながら
いろいろと説明を聴く会でしたが、
いままで「最上義光」と言っても具体的には
何もイメージできなかったものが、
話を聞くうちにどんどん見えてきました!
戦国時代末期に山形城で産声をあげた
このお殿様は、
当時としては長身でマッチョで
やる気に満ち溢れたすご腕のお殿様だったこと。
塩じゃけとみかんが好物だったこと、
学科は今で言う国語が得意で、
書物を良く読み、筆まめで手紙もまめに書き、
連歌を詠むことに長けた
一流の文化人だったこと、etc...
あとでウィキペディアなど紐解いて見ると、
時代が時代だけに、
周りのさまざまな人たちとの力の駆け引きの中で
どろどろとしたものもあったようですが、
それでも、このお殿様は
領民たちのことをとても大切にして、
無理な税の取り立てなど一切しなかったのね。
だから、義光公の統治下では
一揆などはぜんぜん起きなかったそうです。
それに。
大河ドラマ「天地人」でおなじみの
直江兼続率いる上杉軍との、長谷堂城での合戦においては
大将なのに自ら指揮棒を振りかざして敵に攻め込んで行き、
一斉射撃を受けて、兜に砲弾の跡が残りました。
このときかぶっていた兜は
織田信長からいただいたハイクオリティな兜だったので、
砲弾が貫通せずに済んだようです。
下々の兵がかぶるような安っぽい兜だったなら、
きっと命は助からなかったでしょう。
記念館内に展示されていた屏風の絵に
その時の様子が描かれていました。
馬さえ昇っていけないような急こう配の断崖を
馬を捨て、敵を追って自ら突撃していくお殿様
その少し後ろで、それを諌める立場のお侍さん
(要するに、大将はそんなリスクを冒してはなりませぬ!と
制止する役目の人)
が、暴れる馬から放り出されていました。
歴史館ボランティアのおじさんの説明を聴きながら、
その屏風絵をじ~っと見ていたら、
その時の様子が本当にリアルに思えて…
本丸、二の丸、三の丸、そして長谷堂城、成沢城、上山城と
防御に防御を重ねていた状況で、
殿様自らそういう危険に身をさらすというのは
普通では考えられないと思います。
と同時に、自ら危険な矢面に立っても
山形城、領地、そして領民たちを守ろうとしたお殿様、
最上義光の人柄が感じられて
すごい感動しました!!
熱血漢で、誰よりも山形という地と民を愛し、
この土地の発展を願って
さまざまな政策を実践し、
今の山形の礎を築いたお殿様なんだなぁと。
もう400年も前の話なのに
なんだかすごく身近に感じられて、
義光公に会ってみたいなぁ~って
まるで子供のように思いました。
69歳で、消化器系の疾患のために亡くなった義光。
(当時としては、それでも長生きですよね。)
側近の家臣が嘆き悲しみ、
4名が直後に自害して後を追ったそうです。
義光、息子・孫、そしてこの4名の家臣の墓がある
市内の光禅寺の境内では、桜の木が
今も春になると見事な花を咲かせるとのこと。
「光禅寺のしだれ桜が見事ですよ~」と
話には聞いていたけど、
そういうお寺だったとは知らず…
今度の桜の季節には足を運んでみたいなぁ。
今日から始まったNHK大河ドラマ『軍師 官兵衛』は
時代設定が、義光公の時ととても近いです。
今日のセミナーを聴いてにわかに
戦国時代に興味が湧いてきた私。。。
続けて見てみようかな。
興奮覚めやらぬ私が、
留守番してたダンナ相手に
いろいろと教わってきたことを話してた勢いで
「私、今日からにわかに
歴史マニアになったから」
と言ったらば
「あ~、それっていわゆる歴女(レキジョ)ってやつ?!」
…その後2人の間にしばし沈黙が流れ、
同じタイミングで
「歴婆(レキババ)か…」(笑)
いいんです、歴ババでも。
大学受験のときには
年号暗記に追われて
まったく興味が持てなかった歴史に、
この年でちょっと興味が持てたことがうれしい収穫でした