『エアで行く京都めぐり』大田垣晴延のblog♪

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京都の風景♪いっしょに歩こ♪
(*^-^*)ノ~♪
エア京都旅行にご招待♪
気ぃ向いたら更新するね~♪

空の青さは秋に似てるけど

実は5月の連休も終わった時分の
5月8日 月曜日♪


…てか、
今や京都は、すっかり底冷えの冬…
❄️
(( ( ω-、)))ブルブル…



(≧∀≦*;)ゞ
書きかけで放置してた記事



前回 のつづき♪



…てか、

前回の書き忘れ🎵
(≧∀≦*;)ゞ
しかもメイン記事!? 上林ネタの続き
(半年以上も書きかけ放置してりゃ、そらやっちゃうw)


前回は、
宇治川から♪
…ふりむいて、
鳥居に見ながら
横断歩道 渡って、目の前♪
(写真:左手→右手)

永楽屋サンの前を過ぎて
宇治橋通りをまっすぐ🎵

ゆるやかな登り坂♪
途中、
上林一族のお店たちを過ぎて♪

スーパーの前に出た🎵



そのスーパー『アポロ』から、
登り坂をサラに進んで、
2軒はさんだ、
ソノとなり…
京都銀行  宇治支店サン♪
🏦

ソノ
銀行に、
こんな石碑🎵
宇治代官所跡🎵
宇治代官所跡
 上林(かんばやし)家は、徳川家康が本能寺の変(1582年)で堺から三河に逃げ帰る際、上林久茂(ひさもち)らが近江(おうみ)信楽(しがらき)まで先導した功績により代官に取り立てられたと伝えられている。
 上林一族の代官支配は、江戸時代の初めころから寛保3年(1743年)までの百数十年7代にわたって宇治の代官として君臨した。寛保3年(1743年)から寛政12年(1800年)までの57年間は宇治に居住しない代官がこの任にあたった。
 その後、寛政12年(1800年)から天保14年(1843年)の43年間、上林六郎久忠(ひさただ)が代官に就任し、そのあと久建(ひさたけ)、久賢(ひさかた)が代官職を勤めた。以後、宇治郷を支配する代官は京都代官・小堀氏、信楽代官・多羅尾(たらお)氏の兼務で引き継がれ、明治維新(明治元年=1868年)におよんだ。
 代官所のあった宇治妙楽160番地は明治5年(1872年)8月には宇治町役場となり、また明治6年(1873年)2月に開校した莵道小学校の門は、代官所の門が使用された。その後、この役場は、昭和26年(1951年)3月に宇治市役所となり、宇治市制が発足した記念すべき場所で、昭和38年(1963年)に現在の宇治市役所(宇治琵琶33番地)に移転するまで続いた。
平成9年10月 宇 治 市 教 育 委 員 会
宇治ライオンズクラブ


…前回さんざん上林ネタ入れといて、
カンジンなコノ石碑のコト
まるごとすっ飛ばしちゃって💦
(≧∀≦*;)ゞ

上林春松サンのご先祖
『上林』一族はモトモト、
丹波国何鹿郡上林庄発祥で、
(現・綾部市 発祥)
(ボクも実は、旧・山城国でもない地域の歴史には疎くて、親切なブロガーさん に教えてもらって知ったん)


家伝(家系図)では、
足利尊氏に仕えた(?)
赤井基家の子・赤井秀家
コノ地に住んで
上林氏を称したのが最初で、
丹波国の雄・赤井氏の一族やったんやて♪


…ただし、
足利尊氏が活躍してた当時の文書には
『上林』もソノ本家『赤井』も
一切の記録ナシ
ヾノ´-ω-)

(とくに『太平記』には、赤井のサラに本家筋の
芦田とか丹波国の諸豪族たちは記録されてるのに
やっぱり赤井&上林は記録にナシ。)

赤井氏が初めて史料に現れるのは
戦国時代になってから
(大永6年=1526年)


ただ、
まだ芦田一族からキチンと分家してなくて
赤井氏や上林氏を名乗って無かっただけで、
まだ芦田氏を名乗ってた赤井氏や上林氏の先祖が足利尊氏に仕えてた可能性はアリ♪
🐜


戦国時代
上林城城主として上林地区一帯を治めてたケド、


織田信長が天下統一を進めてた16世紀後半、
ソノ部将・明智光秀丹波侵攻によって上林一族も旧地を逐われ…
( `Д´)/ ε=ε=(ノ≧∇≦)ノ


やがて、
ソノ上林一族の1人
上林久重(かんばやし ひさしげ/1589年没)が
永禄年間(1558年~1570年) に 
宇治に移住♪
(*≧∀)ゞ=3

コノ人こそ宇治の上林一族の家祖とも言うべき人🎵

久重には4人の子がいて、
銀行前の案内板にも名前が出てた
長男・久茂(ひさもち/1606年没)は
『本能寺の変(1582年)』で堺から三河に逃げ帰る徳川家康を助けたり、
四男・政重は『関ヶ原の戦い(1600年)』の前哨戦『伏見城の戦い』で、家康の留守を守る鳥居元忠らと共に伏見城籠城♪ 石田三成ら攻城軍と戦って討死する戦功を立てたりして、


宇治でも茶業でも新参やったハズが、
徳川将軍家の功臣やったチカラを背景にして、
宇治宇治茶業界牛耳っちゃうん🎵
o(≧∀≦*) アイム、チャンピオン❗


上林久重の4子は、それぞれ1家を興して、

峯順家(六郎家、門太郎家)
家祖:長男・久茂(掃部丞,久徳)
茶頭取、代官家(士分。知行500石)

味卜家
家祖:二男・紹喜(味卜)
御物茶師

春松家
家祖:三男・秀慶(春松)
御物茶師

竹庵家(又兵衛家)
家祖:四男・政重(竹庵)
茶頭取、代官家(士分。知行300石)


…の4家に分かれて繁栄🎵
クローバークローバーヽ(*≧∀≦*)ノクローバークローバー

実際に手柄立てた長男と四男の家系が『茶頭取』『代官家』として1段上の扱い



サラに、
ホンマの上林一族だけやのぉて
血縁以外にも上林姓を名乗らせて
しっかり勢力固め🎵
(*^^)人(*≧∀≦)人(^^*(^^*)


他氏から上林姓に改姓した家として、
牛加家(元近江国瀬田城主♪旧姓:山岡)
三入家(槇島村出身♪旧姓:藤村)
道庵家(近江国北村出身:北村♪上林姻族)

 


 




宇治茶業界でのランクも、
 上から順に
『茶頭取』(2家)
『御物御茶師』(11家)
『御袋御茶師』(10家)
『御通御茶師』(13家)
のウチ、

茶頭取 
上林峯順(長男家) 
上林竹庵(四男家)
 の2家♪

御物御茶師 
上林味卜(二男家) 
上林春松(三男家) 
上林平入(長男家の分家) 
上林三入(藤村姓から改姓)♪

御袋御茶師
上林牛加(山岡姓から改姓) 
上林道庵(北村姓から改姓) ♪

…てカンジで
上林一族は上位に君臨🎵


でも、
江戸時代が終わって、幕府や大名家の庇護が無くなると、ほとんどの御用御茶師が廃業してしまわはって…
( ω-、) ~🍂

上林春松家以外はみな残らず廃業
(平等院参道の『上林三入』は、廃業した上林三入のお店の権利を譲り受けはった田中サンが経営。なので江戸時代の御用御茶師で続いてるんは『上林春松』だけ)



一方、上林一族は
宇治代官としても宇治支配
(以下、上林一族の歴代『宇治代官』)

久茂(ひさもち)
門太郎家(長男家)初代 掃部丞,久徳

勝永(かつなが)
門太郎家2代 徳順

勝盛(かつもり)
門太郎家3代 峯順(初代)
元和2年(1616年) 父の遺跡を継ぐ
明暦2年(1656年)没

豊重(とよしげ)
門太郎家4代 峯順(2代)
明暦2年(1656年) 父の遺跡を継ぐ
寛文1年(1661年) 子・重胤に譲る
寛文5年(1665年)没

重胤(しげたね)
門太郎家5代 峯順(3代)
寛文1年(1661年) 父の跡を継ぐ
正徳3年(1713年)没

久豊(ひさとよ)
門太郎家6代
正徳3年(1713年) 父の遺跡を継ぐ
享保4年(1719年) 先祖代々の借財過多により改易…
ボクのせぃちゃうやん
( ω-、)💸💸💸

又兵衛家(四男家)の政武が宇治代官に


又兵衛家の家系図:
政重ー政信ー政次ー政矩、政富(政矩の弟)、定政(政矩の弟、政富の兄)ー政武

政武(まさたけ) 又兵衛家7代
元禄12年(1699年) 父より代官職(山城、大和、摂津、近江の村々)を継ぐ
享保4年(1719年) 門太郎家の宇治代官も担当
寛保3年(1743年) 手代の落度で閉門、失職
延享4年1747年没
やっぱりボクのせぃちゃうやん
( ω-、)もやもや

他家(宇治以外に居住)が宇治代官に

上林久忠が宇治代官に返り咲き🎵
久忠(ひさただ) 門太郎家 六郎
天明4年(1784年) 代官格となる
寛政12年(1800年) 宇治代官として支配
~文化12年(1815年)

久建(ひさたけ) 門太郎家
文化12年(1815年) 宇治代官として支配
~天保2年(1831年)

久賢(ひさかた) 門太郎家
天保2年(1831年) 宇治代官として支配
~天保14年(1843年)

再び他家(宇治以外に居住)が宇治代官に


やがて
約20年ほどで明治維新を迎えて、
宇治代官支配終焉


代官所も、
今となっては銀行の隅っこに追いやられてるみたいな石碑が、
ただ昔の位置を示すだけ…
(*´_`)



さぁ♪
とりあえずモト来た方に引き返して
またスーパーの前まで戻ってきた🎵



Next♪
(*σ≧∀≦)σ