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メディアisメッセージ

社会学者マルクハーンは述べました。

皆さんは何か不安があるときってどうしますか?


私はですね。


「情報」を集めます。


昔は情報誌を頼っていましたが、最近はネットを活用することが多いです。


ネットは体験者の生の声を、ときにはリアルタイムに聞けることが大きな利点です。


ただネットは情報が多すぎてどれを信じていいか解からなくなることが多々ですが・・・。


最後は情報誌に戻ることも度々です。


ただ、「あるある~」の捏造発覚や、「産経」のサクラなど既存メディアすら怪しいとなると、もう何を信じれば良いのやら。


結局は自分で判断し選び、その結果には責任を持てということでしょうか?




そんな時代背景をしょってか、最近では学校現場でも「情報」に関する教育が行われるようになりました。


当初は「IT教育」と呼ばれてせいぜいPCの検索を使った調べ学習が主だったようですが、やがてはもう一歩踏み込んで「情報リテラシー教育」が行われているようです。


「情報リテラシー」=情報を読み解き上手に活用する力


これが難しい・・・。


私が教えて欲しいくらいです(笑)。


最近はもう一歩踏み込んで「メディアリテラシー教育」なるものが登場しているようですね。


「メディアリテラシー」=メディアを上手に活用して、自身の考えを発信する力


とされていました。


これは「ブログ」などの登場で情報発信が身近な手段となり得たことに関係がありそうです。


まさに私が今必要とする力ですね。




ただ、日本の学校では「情報リテラシー」=「メディアリテラシー」としているところもあるようですが、どうなんでしょう?


わかる方は是非教えてくださいm(_______)m




長崎では、小学生がHPの掲示板の書き込みを発端に「殺人」という最悪の結果を生み出したことがありました。


メディアリテラシー教育がしっかりしていれば防げた事件だったのか。


そんなことをふと考えました。

日本国憲法の柱を3つ。


「基本的人権の尊重」「国民主権」「平和主義」


以上のことは小学生の頃にすでに習っていたと記憶しますが・・・。



日本に人権思想を持ち込んだのは中江兆民でしたね。


ルソーの「社会契約論」を翻訳し日本に紹介しました。


この頃、日本は維新後の大混乱期でした。


清のように外国の植民地になっては『えらいこっちゃ』と維新を起こした志士の方々。


しかし、維新後、日本をどういう国にしたいかという明確なビジョンがなかったといわれます。


「人権思想」はそのビジョンを示し、後の「自由民権運動」につながっていったそうです。



この辺りは、司馬遼太郎の『飛ぶが如く』に詳しいです。


興味のある方は是非。


一緒に司馬史観を語り明かしたいものですね(笑)。



ルソーといえば『エミール』ではじめて「子ども」という概念を打ち出したことでも有名ですね。


それまでヨーロッパでは「子ども」は「小さな大人」であり「労働者」だったそうです。



そんな歴史背景を俯瞰してみると、改めて「権利」の尊さが身にしみます。


「権利は自明のものとしてあったのではない」のだと。




さて。



なんでこんな話をしたかというと、今日の一面です。


全国紙5紙が一面に「NHKの番組改ざん訴訟判決」を掲載しました。


これはもう一年ほど前になるでしょうか、朝日新聞が「NHKが政治家の圧力で番組を改ざんした」とスクープ記事で取り上げたことがことの発端だったように思います。


それにNHKがそんな事実はないと猛烈抗議。


朝日はさらに対立姿勢を示し、他の全国紙も巻き込んで大きな議論が起こりました。


結局は双方譲らずで立ち消えた感があり、個人的には両者逃げたかと思っていました。



今回の訴訟の原告は朝日ではなく、番組でインタビューを受けた「市民団体」でした。



判決はNHKが「編集権」を乱用し市民団体の「期待権」を侵害したと認定。


NHKに200万円の賠償命令を告げました。




「権利」で関連して思い出したのですが、最近は「給食費」を払わない保護者が多いと問題になってますね。


理由は様々ですが、「貧困」を理由に挙げる保護者は少ないと報じられていました。


彼らは「払わない権利」を主張するとのことでした。



「義務教育はただなんだから、給食費もただにしろ」



なんて理由もありました・・・(汗)。




教育に関する権利にも二つの側面があるとされます。


教育の機会を国家が補償する「社会権」としての権利。


国家の教育関与を最低限に抑える「自由権」としての権利。


この二つです。




最近はそんな側面もごっちゃにして「権利」=「個人の好き勝手」と勘違いしてしまった方々が気になります。





怖いのは国家からの「反動」です。


権利って結局は憲法によってしか保障されないないのです。


「憲法改正の動き」もその反動かもしれません。


あまり、好き勝手していると足元をすくわれるのではないでしょうか?




教育関連法案はすでにどんどん国家の手が伸びていますよ。


大丈夫ですか?


最近、私のような庶民には実感のもてない「好景気」が続き、加えて団塊世代の大量退職も重なり、新卒採用を積極的に行う企業が増え、新卒学生たちの「売り手市場」となっているようです。



私のように金融恐慌が起こり、リストラ・人員削減が続き、「超氷河期」と呼ばれた時期に就職活動を行った身としては、羨ましい限りです。



ただ、その一方で、若年層の「ニート・フリーター」、「離職率の高さ」の問題の深刻さが声高に叫ばれるようになりました。



厚生労働省の調べによるとニート・フリーターの数がそれぞれ、64万人、201万人、05年3月に大学を卒業して就職した若者の離職率は15.0%に上ります。



その背景には若者たちの「働く意味がわからない」「仕事に興味が沸かない」「仕事に対する自信が無い」など一概には括れない様々な理由が挙げられます。



そんな状況のなか、教育現場では「職業教育」の実施の重要性が求められ、新聞報道でも「職業教育」を実践する学校が取り上げられています。



その内容は、直接的な職場体験、ゲームを活用した擬似職場体験、「デュアルシステム」と呼ばれる教育訓練機関と企業での研修を組み合わせた人材育成制度の活用等があります。



またもっと現実的・俗的に外部から講師を招いて、「正社員」と「ニート・フリーター」の生涯賃金な差を示し、「ニート・フリーター」がいかに「損」かを訴える講義を生徒に受けさせる取り組みがあります。



そうやって学生の頃から具体的な職業観を身につけさせようとする試みなのでしょう。



でも少し待って下さい。




「ニート・フリーター」、「離職率の高さ」の問題は単に若者の側の意識の問題だけせいなのでしょうか?



企業は人件費削減のために正社員雇用を控え、それを補うために「フリーター」を積極的に雇用します。

「正社員」になれないがゆえに、「ニート・フリーター」をなる場合もあります。



また、即戦力を求めるがあまり、新入社員に過度なプレッシャーを与えます。

そのプレッシャーに潰れてしまった若者は自信を失い離職させてしまう場合もあります。

そして一端離職した若者はなかなか「再就職」できない現実もあります。



全てとは言いませんが、「ニート・フリーター」、「離職率の高さ」の問題は私たち大人側の「都合」が生み出している側面があることも忘れてはいけません。



タイトルには「逸脱」という言葉をあえて用いました。



「逸脱」とは、「個人(または集団)がその所属する集団や社会の標準から外れた状態にあったり標準的でない行為をしたりすること」という意味です。



ここでいう「標準」はときに大人たちの都合で作られ、ときに「逸脱」とみなされた者は偏見や差別にさらされます。



「フリター・ニート」=「逸脱」というのもステレオタイプな見方でしかありまん。



私が「職業教育」に求めるもの。



それは単に「働く意味」を見出すことではなく、自分の「在り方」「生き方」を問い直すことだと思います。


自分の人生は自分で判断し、自分で見出し、自分で築きあげていくものです。


そこに「後悔の無い人生」があるのではないでしょうか。



教育はそのための価値観=生きる原理原則を磨く助けであることを願います。



理想は「逸脱した者のいない社会」です。


そしてそれは、「ニート・フリーターのいない社会」とは異なるものです。



【参考文献:教育版2下号】