写真の謎-弐 | みぶろーにんのブログ

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懐かしのヒーロー鞍馬天狗に月形半平太。
そのライバルで敵役の近藤勇と新撰組に憧れて数十年。
武士の魂と滅びの美学に魅せられた団塊世代です。




土方歳三の写真に写っている刀は、果たして「會津十一代和泉守兼定」だったのでしょうか。


そして、土方歳三資料館に現存する「二尺三寸一分六厘の兼定」そのものだったのでしょうか。


更に、「十二代和泉守兼定」って実在したのでしょうか。





土方歳三が「和泉守兼定」を佩刀していたことを示すのは、元治元年に近藤局長が日野の佐藤彦五郎に送った書簡に書かれた「・・・刀は和泉守兼定二尺八寸、脇差は堀川国廣一尺九寸五分・・・」とう文章です。


ですから、この時の兼定と現存している兼定は違うものとなりますが、当時、「會津十一代和泉守兼定」は會津藩お抱えの刀工でしたので、會津藩士はもとより新選組隊士にも多く使用されていたのは当然のことで、土方も当然のように「會津十一代和泉守兼定」を使っていたと思われます。


また、土方は「葵越前康継」も所持していましたが、これは甲州から敗走してきた五兵衛新田で佐藤彦五郎に渡されて現存していますので、少なくとも写真の刀は「葵越前康継」ではありません。


これらの事実を考えると、写真の刀はやはり「和泉守兼定」であることは確定といっていいでしょう。


ただ、現存する「二尺三寸一分六厘の兼定」だという確たる証拠もありません。


というのは、土方の命令で箱館から脱走した市村鉄之助が、佐藤家に届けた遺品の中に「刀」の記述がないことです。一説には、二振りの刀(おそらく兼定)を市村に持たせたのは、日野へたどり着くための路銀(現金)に変えるためだといわれていますし、事実敵陣を突破して日野にたどり着く苦労は並大抵ではなかったことでしょう。


それでも、写真の刀が現存する「二尺三寸一分六厘の兼定」であってほしいと思うのは新選組ファンの偽らざる気持ちですし、この写真は、明治元年箱館にて田本研造という写真師が撮ったとされていますので、可能性としては十分に有り得るわけです。

鍔の形が、現存する「七夕」の鍔にそっくりですしね。


最後に、「十二代和泉守兼定」は実在したのかという疑問ですが、昨年土方歳三資料館で購入した「會津十一代和泉守兼定」の図録では、會津刀匠古川系(兼定)は十一代が掉尾を飾っていると記されていて、十二代には触れていません。


十一代と十二代をごちゃまぜにして記載してある文章もありますし、二尺八寸は十一代作、二尺三寸一分六厘は十二代作としている文章もありますので、実に不透明な状態になっています。


実は十一代兼定は、明治二年九月から当地新潟県の加茂市に移って鍛刀しているので、新潟県でも多くの作品が残っています。十一代兼定を研究している当地の著名人の文章にも、十二代の文字は出てきませんので、私としては土方歳三資料館の図録が正しいと思っています。







上の2枚の写真は私が所有している「和泉守兼定一尺二寸五分四厘」の脇差。真贋のほどは分かりませんし、會津古川系であるか否かも分かりませんが、土方歳三の愛刀と同じ刀銘であることは間違いないので、我が家の家宝として大切にしていきたいと思っています。