10階の窓から見た月は、それはそれは大きくて金色の満月だった。私は、寝ていた布団身体を起こして、それをじっと眺めていた。
その気配に気づいたのか、隣で眠っていたはずの友人も身体を起こした。二人して、大きな月をじっと見つめた。
ふと、私は友人の方を向いた。月を見つめる友人に向かって、そっと囁いた。
「大きくなったら、結婚しようね」
と、五歳の私は人生で初めての男の子の友達に言いながら、そのほっぺたにそっと自分の唇をれさせた。
それが、思い出す度になんだか胸が痛む、人生で2番目に古い記憶。
朝の街はすがすがしいほどに閑散としていた。友人との約束まであと5時間。
近くのファーストフード店で、簡単に朝食をすませ、そして私は出発する。
目的地はかつての故郷。「初恋の人」の家を探すために、なんてとっても痒い理由。
ああ、私は二十歳にもなって、何をやっているんだか全く。
きっかけは、夢だった。
私の夢には、いつも様々な複雑な建物が出てくる。道を覚えるのも厄介なほどの不思議な建物で、それはホテルか大きなマンションか何か。それは不快な夢ではない。
夢に出てくるということは、きっと意味があるに違いない。気付いたのは、夢にある建物が出てきたからだった。
赤くて、大きなマンション。とても複雑な構成で、でも私はそこを迷うことなく進んでいく。エレベーターに乗り、降りて、進んで、何番目かの角を曲がり、その先には――
ああ、そうか、ここか原点なのか。
目ざめた私は、そこが「初恋の人」の家だと気付いて、納得した。
懐かしいな、今でも変わってないのかな。今更会ってもお互い気まずいから、別に会う気はないけど。会ってもどうせ顔分かんないしね。でもちょっと覗くくらいならいいよね。久しぶりに、ちょっと行ってみたいし。
なんて、目が覚めた後、布団にくるまって少しだけ考えた。
そんな最中、たまたま、バイト先から休みをもぎ取れた。友達もほとんど帰省して、寂しい最中、その休みは旅行するのにちょうどよかった。ずっと遊びに行こうと思っていて時間がなかった友人に会うために、そして「空いた時間」で、故郷を訪れるために、私は手はずを整えた。
初恋は五歳のころ。弟分みたいな感じで遊んでいた、同じ年の男の子だ。保育園が一緒で、家も近かったから、よく一緒に遊んでいたし、何度もお泊りしていたのを覚えている。
母親はよくそのころのことを述懐している。
――あんたたち二人はすごく仲が良くてね。あの子の家によく遊びに行っていたのよ。あんたは「結婚しよう」なんて言っていて。もうそんなこと覚えてないでしょうけど。
とんでもない。
覚えていますとも。それも鮮明に。だから、そんな小さい頃の記憶をえぐるのはやめてくれないでくれませんでしょうか恥ずかしいからお願いやめてくださいお母さまーっ。
なんて、昔の優しい思い出に浸っている母親に、言えたことは一度もない。
母親にとって、それは娘が小さかったころの大切な思い出に違いなく、それに水を差すのも、私自身が否定するのも間違っている。
行こうにも、場所が分からない。いくら親しかったといえど、友人のマンションの名前を覚えているほど、私の記憶力はよくないし、覚えていたらただのいくら可愛らしい幼児といえどもさすがに変態ストーカーだ。
さて、5歳の時に住んでいた場所は分かる。いつも母親に手を引かれて連れて行かれていたということを鑑みると、そこは5歳児でも行けくらいの距離であったに違いない。友人の家は10階でしかもかなり広いマンションだったと記憶しているから規模はかなり大きめ。
半径1キロ圏内にあり、かつ規模のかなり大きなマンション。更に、場所は自分の家よりも西。そうなると、自然と選択肢は狭まる。
あとは、規模が大きめのマンションを探して、そのストリートビューを見ればよい。某ネットマップを見ながら、私は不敵な笑みを浮かべた。
私の記憶はそこそこいい。十五年前のものとはいえど、そこは信頼してよさそうだ。取り敢えず、規模の大きそうなマンションをいくつか調べてみる。
一つ目は……階数が足りなかった。
二つ目を見たとき、胸がぎゅっと痛んだ。そこは、記憶のなかの建物とそっくりだったから。しいて言うならば記憶の中のものよりも地味だったけれども。
すぐさま、不動産情報で、そのマンションの情報を調べる。間取りや価格、設備などをチェックすると……ああ、やっぱりここだ。距離も私のかつての家から歩いて十二分。
内装は記憶のそれとは少し違うが、それでもやはりリンクする部分は大きかった。
何よりも。
直感が、ここだと告げている。私の直感はかなり精度が高いと勝手に自負している。
見つけた……。
十分以内に見つけるなんて。記憶力の勝利、なんてひとり悦に入っていた私だが、ふと、我に返った。
二十歳成人女子。可愛らしい五歳児ならともかく、今の私はただの変態ストーカーにしか見えない。
その事実に少しへこんだが、何はともあれ、場所は特定できたのだった。
何のために訪れるのか、それは私も分かっていない。会うつもりはない。それに、あってももうお互い分からない。
だって、十五年もたっている。顔だって、体型だって、すべて変わってしまっている。向こうには彼女だっているだろうし、そもそも私のことを覚えているかどうか。
それに、あの子の中の私は、小さな五歳の女の子で。私の中のあの子も、小さな五歳の男の子で。そして、あの頃の幼い子どもたちはもう、いないのだ。
「一回好きになった人を、好きじゃなくなるなんてなかなかできないよ」
なんて、昔言われた。そうだね。好きになった人は忘れられないものなのかもしれないね。そう返した記憶がある。
でも私にとって、初恋はあくまでも初恋。私があの時「好きだった」はずのあの子は、あくまでも五歳のときのあの子なのだ。もうその好きだという気持ちは覚えてなくて、ただ、それが事実として記憶に残っているだけにすぎないのだけれど。
あのころから変わらずにいてほしい、と願う気持ちはない。それは不可能かつ自分勝手な願いだ。だから私は、「好きだった」あの子のそのままの姿を、幼いころの少し甘酸っぱい無邪気な記憶として、大切に取っておきたいだけなのだ。
そして何よりも、私は、あの子の中で、私が小さな五歳の女の子であってほしいと独りよがりに願っている。そう、あのころから変わってしまったのは私も同じ。こんな、大人になってしまった姿なんて、今更見られたくない。
身勝手、と自分を糾弾する声が聞こえる。
そうね、身勝手ね、と私は思う。でも、「私の初恋」の思い出を綺麗なまま取っておきたいと、そしてできるならば相手にも取っておいてほしいと願うのは、間違いなのですか?
問うても、その答えは返ってこない。
