さて、カクムナショナルパークで遊んだ我々一行は、今回の旅のメインである『ケープコースト城』へ向かいます。
この『ケープコースト城』とは世界遺産であり、ガーナで1、2を争う観光名所です。
カクムではシレー(-。-;)っと”ガーナ学生価格”で通ったのですが、今回はさすがにそうはいかず…、
しかし、
ガーナ人(学生)ー 30ペセワ(15円くらい)
に対して、
外国人(大人)ー7ドル つまり 13セディ(700円くらい)
な訳で、これは一種の『逆差別』なのでは思うのは考え過ぎだろうか。
例えば、金閣寺で、
日本人学生ー100円
外国人(大人)ー4500円
みたいな感じですよ。
さて、このお城は海に面して、常に波の”ザ、ザァアアーーン”という音が聞こえ、白い壁は異国情緒をかもし出し、なかなかステキなところなのです。
しかしここは『負の遺産』とも呼ばれます。
なぜならここは約200年もの間、奴隷貿易のために使われていたのです。
信じられない事ですが、かつて人が人を家畜以下、商品のように扱っていたのです。
どこかの村からさらってきた人に焼き印で印をつけて、鎖でつなぐ。
健康状態をみるのは”商品”としての価値を決めるため。
ガイドの口からよく飛び出す言葉は、
『No Food,
No Water,
No Light』
奴隷たちは、食べ物も水も与えられず、明かりもない部屋に何日も閉じ込められていたのです。
この石のようなレンガの部屋はとてもとても暑く、ガイドさんが試しに扉をしめて真っ暗にして我々に奴隷たちがどのような環境にいたのか、体験させてくれるのですが、たった2、3秒でも恐怖を感じます。
さらにこの穴は『通気口』などではなく、奴隷たちが脱走する計画をしていないか探るためのものです。
『奴隷貿易』という言葉は前から聞いた事はありませんが、全くどういうものか分かってませんでした。
「ガーナの観光名所だから」というノリでこの場所を訪れがちですが、奴隷たちが閉じ込められていた部屋をみたり、繋がれていた鎖をみる度に、なんだか悲しくなってきました。
日本だって『原爆投下』という悲しい歴史があります。
だけど、そういう悲しい歴史が200年も300年もに渡って続いているってのは、一体どんなものだろう。
こういう事が黒人の『逆差別』的な感情、”オレたちにはお金がないから”、”白人たちはもともとお金持ちで、俺たちと違って恵まれているんだ”みたいな感情の根源となっているのだろうか。
また、今までは”奴隷”と聞いても、”どこかの可哀想で貧しい黒人”がなるものだと思っていましたが、ガーナに2年住んでみると、ホストファミリーとか同僚の先生とか、教えている生徒とか、時代が違っていたらこういう所に閉じ込められていたのかもしれない、と思い本当になんだか悲しくなってきました。
このドアは『Door of no return』と呼ばれ、
ここを出た奴隷はついにアメリカ大陸に売られて行くのです。
だけど、貨物のごとくつみこまれ航海中に多くが死んだそうです。
そしてその遺体は海に投げ込まれサメのエサになったのだとか。
さて、
ガーナの生徒はガイドの話をよーく聞くし、質問も積極的にする。
これだけ聞いてくれたら”ガイド冥利”につきるだろうなと思うくらい。
レポートを書くためか、彼らはガイドさんにレコーダーを向ける
↑
ちょっと似ている
↓
ここで一緒にいった先生を紹介しましょう。
この立派なビール腹をもつのが『ジョー』で私の飲み仲間。
歴史の先生で、今回の旅行の企画者。
話をまとめると、ガーナ人の元カノに痛い思いをしたので、日本人と結婚したいらしい。
わりとお金持ちだし、男らしいので是非『彼女になりたいわ!』って人はご一報下さい。
小柄な彼は『クレメント』という。
「日本に連れてって!」というセリフはガーナでよく聞きますが、彼は「行きたくない。……地震がこわいから…。」と言った。
私が思う我が校のNo.1イケメン先生ですが、名前はちょっと変わっていて『アチャンポン』と言います。カメラ好きでこの旅行中も私のカメラで、私を撮ってくれており今回の写真のほとんどを撮ってくれました。
ちなみに、私と同い年でいわゆるガーナ隊でいう「1981(いちきゅーはちいち)」です。
最後に記念写真、
本日の旅の行程はこれで終わり。
次回は「エルミナ」です。
この『ケープコースト城』とは世界遺産であり、ガーナで1、2を争う観光名所です。
カクムではシレー(-。-;)っと”ガーナ学生価格”で通ったのですが、今回はさすがにそうはいかず…、
しかし、
ガーナ人(学生)ー 30ペセワ(15円くらい)
に対して、
外国人(大人)ー7ドル つまり 13セディ(700円くらい)
な訳で、これは一種の『逆差別』なのでは思うのは考え過ぎだろうか。
例えば、金閣寺で、
日本人学生ー100円
外国人(大人)ー4500円
みたいな感じですよ。
さて、このお城は海に面して、常に波の”ザ、ザァアアーーン”という音が聞こえ、白い壁は異国情緒をかもし出し、なかなかステキなところなのです。
しかしここは『負の遺産』とも呼ばれます。
なぜならここは約200年もの間、奴隷貿易のために使われていたのです。
信じられない事ですが、かつて人が人を家畜以下、商品のように扱っていたのです。
どこかの村からさらってきた人に焼き印で印をつけて、鎖でつなぐ。
健康状態をみるのは”商品”としての価値を決めるため。
ガイドの口からよく飛び出す言葉は、
『No Food,
No Water,
No Light』
奴隷たちは、食べ物も水も与えられず、明かりもない部屋に何日も閉じ込められていたのです。
この石のようなレンガの部屋はとてもとても暑く、ガイドさんが試しに扉をしめて真っ暗にして我々に奴隷たちがどのような環境にいたのか、体験させてくれるのですが、たった2、3秒でも恐怖を感じます。
さらにこの穴は『通気口』などではなく、奴隷たちが脱走する計画をしていないか探るためのものです。
『奴隷貿易』という言葉は前から聞いた事はありませんが、全くどういうものか分かってませんでした。
「ガーナの観光名所だから」というノリでこの場所を訪れがちですが、奴隷たちが閉じ込められていた部屋をみたり、繋がれていた鎖をみる度に、なんだか悲しくなってきました。
日本だって『原爆投下』という悲しい歴史があります。
だけど、そういう悲しい歴史が200年も300年もに渡って続いているってのは、一体どんなものだろう。
こういう事が黒人の『逆差別』的な感情、”オレたちにはお金がないから”、”白人たちはもともとお金持ちで、俺たちと違って恵まれているんだ”みたいな感情の根源となっているのだろうか。
また、今までは”奴隷”と聞いても、”どこかの可哀想で貧しい黒人”がなるものだと思っていましたが、ガーナに2年住んでみると、ホストファミリーとか同僚の先生とか、教えている生徒とか、時代が違っていたらこういう所に閉じ込められていたのかもしれない、と思い本当になんだか悲しくなってきました。
このドアは『Door of no return』と呼ばれ、
ここを出た奴隷はついにアメリカ大陸に売られて行くのです。
だけど、貨物のごとくつみこまれ航海中に多くが死んだそうです。
そしてその遺体は海に投げ込まれサメのエサになったのだとか。
さて、
ガーナの生徒はガイドの話をよーく聞くし、質問も積極的にする。
これだけ聞いてくれたら”ガイド冥利”につきるだろうなと思うくらい。
レポートを書くためか、彼らはガイドさんにレコーダーを向ける
↑
ちょっと似ている
↓
ここで一緒にいった先生を紹介しましょう。
この立派なビール腹をもつのが『ジョー』で私の飲み仲間。
歴史の先生で、今回の旅行の企画者。
話をまとめると、ガーナ人の元カノに痛い思いをしたので、日本人と結婚したいらしい。
わりとお金持ちだし、男らしいので是非『彼女になりたいわ!』って人はご一報下さい。
小柄な彼は『クレメント』という。
「日本に連れてって!」というセリフはガーナでよく聞きますが、彼は「行きたくない。……地震がこわいから…。」と言った。
私が思う我が校のNo.1イケメン先生ですが、名前はちょっと変わっていて『アチャンポン』と言います。カメラ好きでこの旅行中も私のカメラで、私を撮ってくれており今回の写真のほとんどを撮ってくれました。
ちなみに、私と同い年でいわゆるガーナ隊でいう「1981(いちきゅーはちいち)」です。
最後に記念写真、
本日の旅の行程はこれで終わり。
次回は「エルミナ」です。