亡くなった父はシベリア抑留者
でした。
ソ連全土に抑留された日本人の
総数、正確な数字は分からない。
だが、1955年6月17日の
外務省発表によると、終戦当時、
満州、北朝鮮、千島、南樺太に
居住していた軍民あわせて272
万6000人のうち、57万5000人
がソ連軍によってシベリア、
外蒙、中央アジアに移送された
となっている。
54万から57万5000人が抑留
されたと見てよいだろう。
引揚者総数47万3000余名で
ある。
したがって推定抑留人員から
この数を引いた10万2000人
から6万8000人が、現地で
死亡か行方不明、または戦犯
として中国に引き渡された
ことになる。
(正確な数字でなくてすみません。)
プロローグでは、抑留される
前の軍隊のことが書かれて
いる。
古兵から初年兵に向けられる
イジメが悲惨。
よい兵隊になりたいという思いは
暴力によって叩き潰された。
感情は鈍麻(どんま)し、命令だけ
に反応する機械と化してしまう。
本の内容を順番に書いて
いったら大変なので、省略。
連れていかれたのはイルクーツク
第一捕虜収容所。
疲労と栄養失調、先行きの分から
ない不安。そして病気。
仕事内容は多岐にわたり、工場、
作業場が多い。
父の話では森林伐採の仕事を
させられた人たちは労働環境も
悪く、多くの死者が出たそうです。
イルクーツクは部屋にスチームが
あり寒くはなかったそうです。
11月12月ともなると外気は零下
30度、35度という凄まじい寒さ
になる。
昭和21年の元旦には支給された砂糖
を取っておいておはぎが配られた。
栄養失調の男が明日まで待てないと
いって大晦日の日、特別に食べさせて
もらった。
元日の朝、かじりさしのおはぎを
手にして、さも満足そうな顔をして
息を引き取っていた。
1946年作者はソフホーズ(国営農場)に
派遣された。
閉鎖された工場よりは広い農場での
作業は気分を爽やかにした。
日本人の知恵はすごい。
食料を探す話がおもしろい。
それだけじゃなく、内地ではいろんな
仕事をしてきた人たちなので、作業
効率を上げる知識がある。
労働者階級の人たちは飢えが落ち着く
と、働きたい、動きたいという人が
たくさんいた。
日本人って基本的に働き者なんで
しょう。
長くなったので1回目はここまで。
見ていただき
ありがとうございました。
