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道が整備され、陸前高田にたくさんの重機が来てくれました。


そして、瓦礫を除けるとたくさんの遺体が出てきました。


遺体はトラックに乗せて運ばれて行き、早く探している人たちと会えるといいなと思いました。


また悲しみが広がりました。


瓦礫の下から昨日から復旧して電波の入るようになった携帯の着信が聞こえました。


妊婦さんの遺体が出てきたときも本当につらかったです。何の罪もない人たちが犠牲になる現実。

人が生きていく意味が分からなくなってしまいました。


数日前まで思い出のつまった自分の家が建っていたところが道になっているそうです。


生存者がいたときのために救急セットを用意して

重機の作業を見守っていたけれど残念ながら私たちの出番はありませんでした。


ため息と涙ばかり出てきてあとはひたすら悔しかったです。


熱と食欲不振で受診した男の子と話す。泥だらけのドラえもんの本を見せてくれました。


ドラえもんの道具で何が好き?と聞いたら


「ずっとお座敷釣り堀が好きだったけど今はタイム風呂敷。タイム風呂敷で地震の前の高田に戻したい」と言っていました。


純粋な子供たちの心まで傷つけた震災。


ちょっと休憩をもらえたので立ち入り禁止区域が解除されたところに行ってみると、おじいさんが必死に何かを探していて。60年集め続けた切手のコレクションを探しているとのこと。それとアルバムも。


親の位牌を探す人、

旦那の形見を探す人、

飼っていたペットを探す人、

ランドセルを探す人、

家族を探す人


瓦礫をよけると遺体が出てきそうで怖かったけど

みんなで探したけど全然見つからなくて悔しかった。


人の命や宝物までこんなふうにいとも簡単に奪っていくなんて


おじいさん以上に立ちすくんでしまって逆に励まされてしまった、情けない自分。


頑張ってとか頑張ろうって言えない。頑張り過ぎてるくらい頑張ってるのを見ているから


「我慢しよう」「乗り越えよう」としか言えない。


これ以上頑張れとは言えないし、頑張ったところで、どうにもならないことがたくさんありすぎたから。


だけど、だんだんいい方向にむかってるよね?


今日はちょっと寒いから気持ちも弱気。


でも頑張ろう!!


たくさんのお別れもあったけど、今日やっと家族や友達に会えた人もいるんだから。


携帯が圏外で使えなくて不便なこともたくさんあったけど、そこまで行って言葉で伝えることや話ながら背中に手をあてたりぬくもりもたくさんあった。連絡が取れないから待ち合わせ場所に遅れないようにみんなが早めに来たりした。ネットも繋がらないから必要な情報が入ってこないから

みんなで相談したり仲間を信じて行動した。知りたくもない情報は入ってこないから日常を離れた気分になれた。

お金も必要なかった。使ったのはテレフォンカードを買っただけ。でも被災地ダイヤル回線でお金はかからなかった。

素敵なバッグもおしゃれなコートも必要ない。

あったかければなんでもいいから羽織っていた。
頭が寒かったときはハーフパンツをかぶって寝た。私なんかより抵抗力の弱いお年寄りが寒くないようにみんなで掛け物を提供した。


自家発電が終了する夜は小さなろうそくのもと
これからを避難所のみんなと肩を寄せて話した。
瓦礫の山とぬかるんだ地面の陸地と対象的に真っ暗な夜空に星がいつも夜になるときれいだった。人の声を聞くとほっとした。


水が出なくて資源の大切さを実感した。髪も顔も洗うような無駄な水はない。お風呂に入れなくて赤ちゃんのおしり拭きで全身を拭いた。それで出たゴミは持ち帰った。

避難所や救護所や病院で奇跡の再会ができた人もたくさんいた。そのたびに誰彼関係なく周りは拍手。まだ自分は身内に会えてない人まで他の人の再会を祝福していた。

その光景を見て家族や友達や同僚や親類や仲間の大切さを再認識した。

ちょっとだけ早く帰りたくなった。

1人でいる人に誰か必ず寄り添っていた。

私が医療物品を1人で詰めていても必ず現地の人が話し掛けてきた。

炊き出しの時間も現地の人優先だったので、見てるとお腹がすきそうだから救急車の中にいるといつもお裾分けに来てくれた自分の母親くらいの年齢の方がいた。

○○チャンに倒れられたらそれこそ大変だから」と私の名前を覚えてくれていつも届けてくれた。

自分の明日の食事も見通しがつなかい状況なのに
申し訳ないのと感謝の気持ちでいっぱいでいつも母のことを思い出していた。

そんなときラジオから都内で物資を取り合いしているニュースが流れていて、震災の被災地が東京だったら絶対復興はしないだろうなとぼんやり考えていた

ラジオのありがたみも知った。日本語って本当に素敵だと思う。スペイン語をマスターしたかったけど日本語をもっと大切にしたくなった。

ラジオからはいつも前向きな歌が流れていたし
きっとみんながリクエストしてくれたんだと思う。

アンパンマンの歌、平原綾香の歌、岡本まよの歌、ミスチルの歌、嵐の歌、世界にひとつだけの花はほとんど毎日流れていた。

あと懐かしいところでは「それが大事」とか「どんなときも」とか。

ラジオからドリカムの『何度でも』が流れてきたときは患者さんを運びながら涙が止まらなかった。すっごく勇気をもらった。友達の顔や家族の顔が無条件に浮かんできた。医療チームも腕まくりする人が増えたから歌に後押しされていたと思う。

眠れない夜は翼の「君となら」とか「見果てぬ夢」とか「ただ・・・」を一晩中聞いていた。
勿論曲に励まされたけど、あの楽しくて明るい空間って当たり前じゃなくて、そこまで行けることや、みんなが元気に参加出来ることって本当に恵まれた環境だったんだと思った。

あの会場にいた震災に遭った友達のこともずっと思い出していて早く楽しい場所で笑顔で会いたいと思った。

いくら芸能人が「頑張って」とエールを送ってたとしても、なんせ電気が思うように復旧していないし、やっと見れたテレビはすべて震災情報、ラジオも震災情報、新聞も震災情報。

エンタメ情報なんてひとつも入ることはなかった。

避難所のみんなもニュースしか見ていないし、他の避難所がうつるたびに家族や知人がいないか必死だった。

他県や外国からの自衛隊の方々、企業からの支援、物流の運転手さんたち、電気会社の方々、医療スタッフetc


すごくあったかかった。

まだまだ日本は捨てたものじゃないなと思う。

こんなときになかなか笑顔になれないけど挨拶するとき、お礼をいうとき、笑顔でいるように心がけた。

心が折れることばかりの毎日だけど、避難所のみんなの心のほうがどんなに傷ついているか。

傷に薬をつけて包帯を巻くのは簡単だけど心に包帯を巻くのは難しい。

笑顔の薬、少しでも傷が癒せるといいけど

『誰かの笑顔につられるように
こっちまで笑顔がうつる魔法のように
理屈ではないところで僕ら
通じあえる力を持ってるはず

あなたは今笑っていますか
強がりじゃなく心の底から

憎しみが入る隙もないくらい
笑い声が響く世界ならいいのに』


⬇︎続き

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