相手をジャッジすると心が楽になりました。

私が正しい
あなたが間違っている
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起きた出来事を公平な天秤にかけて
ためつすがめつ眺め、全方位的に
もうこれ以上考える余地はないでしょうと
ズダンと音がするような裁定をして、

このほかに答えがあるというなら
どうぞここに持ってきてください
自信たっぷりふんぞり返っていたと思います。

「謙虚に見えて尊大」は得意分野でした。

心の断捨離の中で手放してホッとしたものは
相手をジャッジする心です。


美しく冷たい氷の天秤を胸に
冷静に相手を見つめ、
ふだんは優しく、
できる我慢はすべてやりきる。
それをまた自分の決断の正しさの
大きな根拠にしていました。

もがきながら同居を続けていた時
私は裁判官でした。
「あなたもOK私もOK」
真理ですが、1ミリも役に立ちません。

ゼロか100か
善か悪か
主か従か

冷徹な判断をしながら、
そこにひとりよがりな思惑が
入り込むことを決して許さず、
常に中立を保っているという自負が
受け入れがたい現状を動かす
車輪の役目をしていました。

同居をやめてもなお1年もの間
「私の判断は間違っていなかった。
私が正しかった」
そう言い聞かせることで
心の均衡を保っていました。

過去を総ざらいし、
思いを反芻し、
「やはり私が正しい」
と思えてようやく
自分を許していたのです。

相手をジャッジしたい心がある時
そこには
引きちぎられそうな心があります。

相手も自分も許さない
張りつめた緊張を解くには
環境と心を変えることです。

同居が嫌なのに同居をしている
環境に身を置きながら
心を変えることは
簡単にはできません。

その間に受けた心の指南は
「まだできる。まだやれる。
まだ我慢が足りない。」と
自分を虐める道具にしかなりませんでした。

相手をジャッジする時
自分のこともジャッジしています。

公平か
そこに正義はあるか

息苦しいのは
自分を厳しく取り締まっているから。

「他人をジャッジしない」
は理想ではありますが、
自分を厳しく取り締まる性分の人間には
他人をジャッジすることが
自分への赦しになることがあります。
ただ今前を向ける時があります。

相手をジャッジする心がある自分すら
ジャッジしてしまう私。

厳しく審判され、
糾弾されて震えている
小さな私(リトルミー)に
「そこにいていいんだよ。」
と声をかけた途端、
ジャッジする心を解放できるようになります。