みなさん、おばんです。

 

 ・・・キムチ?

 

 北朝鮮工作員パク・ナムルの放った不用意な一言に、全員、凍りついただ。

 

ミシェルのパパ「麻婆豆腐に、キムチなんか、入れるのかね」

ミシェルのママ「そんなの、聞いたことないね」

 

 パクは、焦っただ。辛い料理=キムチという安易な連想でキムチの名をクチバシってしまった自分のアサハカさを思い、国を背負った使命を果たせない自分の将来とその人生が、音を立てて瓦解していくサマを脳裏に見て、さらに脂汗を中華鍋に滴り落としタダ。

 

 その絶体絶命の窮地に、またしても、ミシェル・リィが救いの手を差し伸べてくれたダ。

 

ミシェル「麻婆豆腐にキムチなんて新しい発想ね。さすが本場のレストランで修行しただけのことはあるわ」

 

パパ「・・・うむ。百聞は一見に如かず。是非、食べてみたいものだが、残念ながら、ウチにはキムチなんかないぞ」

ママ「コリアタウンに行って、買ってこようかしら」

 

 パクは、あざとく「いいえ、わたしが買いに行きましょう。この街のことを知りたいし」と、サラリと言ってのけただ。

 

ミシェル「それなら、わたしが案内するわ」

パク「ありがとうミシェル」

 

 そうして、ひとまず難を逃れたパクはミシェルに連れられコリアタウンに向かっただ。このときも、助手席には乗せてもらえず、ミシェルが運転するピックアップトラックの荷台に乗せられただ。しかし、パクは不思議と嫌な気持ちにはならなかっただ。ミシェルが自分を隣に乗せたくない理由を聞きたいとも思わなかったし、それならソレでいいと思っただ。

 

 共産主義の国で生まれたパクには階級意識は染み付いていたが、人間を差別するという意識はなく、もしくは希薄で、この世の中で唯1人、首領様だけが特別な存在で、ソレ以外の全ての人は自分とフラットな存在と思っていただ。当然、同じアジア系のミシェルが自分を差別するとは思いもしなかったし、なにより、フィアンセを、人種差別の対象と考えているなんて想像できなかっただ。

 

 異国の地の新鮮な乾いた風は、パクに内省を強いることなく、パクの意識を外側に向けさていただ。何もかも赦せるような心持ちになっていただ。パクは生まれてはじめて、開放感、というものを身体全体で、感じていただ。

 

 

 

 

 

 

 みなさん、おばんです。

 

 北朝鮮工作員パク(偽名ルゥリィドゥ)は絶体絶命の窮地に立たされた二ダ。

 

 彼は調理の経験はおろか、中華料理が何であるかまったく見当がつかない、超がつく田舎モノだっニダ。

 そんな彼が、どういう経緯でそうなったのか、中国の一流レストランで修行したシェフにに仕立て上げられて、フィアンセだという娘の親から料理を作れとせっつかれ、ラードの代わりになるぐらいの脂汗をタラタラ中華鍋に滴り落としたニダ。

 

ミシェル「着いたばかりで、かわいそうじゃない、後にしましょうよ」

 

 パクのパニックを察知した、フィアンセを名乗るミシェルリィが助け舟を出してクレタだ。

 

ミシェル「疲れてるわよね?少し休んだら?」

 

 パクは安堵して、しかし、その気遣いを受け入れてはスパイの名がすたると思い、「いや、大丈夫ですよ」と言ってしまったダ。

 

パク「やりましょう。何がご所望ですか?」

 

ミシェルのパパ「よし!そのイキだ!オレが見込んだだけのことはある!その気前の良さは、キミの親父、ルゥサァツァイそっくりだ!」

 

 ・・・サァツァイ?初めて聞く名前だったダ。しかし、墓穴を掘るとはこのことだと激しく後悔し、再び、脂汗をラードの代わりに滴らせタダ。ミシェルの冷たい視線が突き刺さっただ。もう、助けてくれまいと悟っただ。

 

ミシェルのママ「それじゃ、麻婆豆腐を作ってくれるかい?」

 

 まーぼーどーふ?・・・ババアの豆腐?意味不明の言葉だっただ。世界の全言語を操るパクの能力をもってしても、初めて聞いた名前の、見たこともない料理を作る、というというのは至難の業であっただ。

 

 そのとき、雷に打たれたように、パクの脳髄に天啓が降りただ。パクは、どんな料理にも『味』というものがあるはずだ、と思っただ。そして、各人の味覚があり、好みがあるということを思い出しただ。そこで、この謎の料理の本質に迫るべく、ちょっとズルい質問をしたのだ。

 

パク「ミシェルのママ、なんて呼ぶのはまだ早計かな、ミセス・リィ。あなたの好みは、何ですか?甘いとか、辛いとか、濃いとか、薄いとか・・・」

 

ママ「そりゃあ、麻婆豆腐は辛いほうがいいわよ。ねぇ?」

パパ「そうだな。辛いほうがうまいな。唐辛子をジャンジャン入れてな」

 

 勝機あり!パクは内心ガッツポーズをしただ。まーぼーどーふ、とは、辛い食べ物なのだ。それさえわかれば、こっちのものだ、と思っただ。豆腐という単語はもちろんわかっていたので、彼が知る例のアレを加えれば、いいだけなのだ!

 

パク「いいでしょう、とびっきり辛いまーぼーどーふをお作りしましょう」

 

ママ「楽しみだねー」

パパ「オレをびっくりさせてくれよ」

 

 パクは自信満々に冷蔵庫をあけ、例のアレを探したが、見つからなかったダ。

 

パク「すみません。キムチ、ないですね」

 

 ミシェルと彼女の両親は目をテンにさせ、ほぼ同時に、「キムチ?」と聞き返しタダ。

 

 

 

 

 

 

 

 みなさん、おばんです。

 

 中国人ルゥ・リィドゥに成りすました北朝鮮工作員パク・ナムルは、フィアンセだというミシェル・リィに促されるまま、彼女の後をついて空港の外に出たダ。歩きながら、疑問に思っていることを矢継ぎ早に聞いたダ。

 

パク「フィアンセって、つまり、キミとボクは、婚約しているってことなの?」

ミシェル「でしょ。っていうか、はじめて聞いたような口ぶりね」

パク「いや、忘れていただけだよ」

 

 パクは言葉を濁したが、まったく寝耳に水のことだったダ。一体、これはどうしたことだ。事前に聞いていたことは、中国人留学生として、LAの大学に入学し、そこの学生としての身分を隠れ蓑に、諜報活動をする、ということだけだったダ。

 

パク「その、キミは、それで、いいの?」

ミシェル「どういうこと?」

パク「だから、つまり、ボクで、いいの?」

ミシェル「いいんじゃない。婚約なんて、カタチだけよ。実際、結婚したとしても、店を継いでもらうためだもの。それ、わかってるわよね?」

パク「店?」

 

 ミシェルは立ち止まり、不審そうに、パクの目を覗き込んだ。

 

ミシェル「ねぇ、あなた、ほんとにルゥ・リィドゥなの?わたしの父親の親友の、息子よね?」

 

 パクは、そのとき、ようやく理解したダ。当局は、秘密裏に、自分が成りすましている人間の生い立ちはおろか、これからの道行きまでも操作しているのだ、と。全ては、あらかじめ、決められていることなのだ。自分は、その流れに沿って生きていかなければならないのだ。母国でもそうだが、ここ、自由の国アメリカでも、自分で決められることなど何もないのだ。

 

 そして、このミシェルというアメリカ人女性も、どこまで信用したらいいものか、パクは戸惑ったダ。どこまで自分のことを知っているのか。本当に、自分を、中国人だと思っているのか。それとも、手の内を見せずに、カケヒキを楽しんでいるのか、そうして優位に立って、主導権を握ろうとしているのか、しかし、何のために?もしかしたら、スパイの間では、簡単に、互いの素性をさらさないことが鉄則なのか・・・とにかく、いずれにしても、用心するに越したことはないと思い、しばらく様子見することに決めたダ。

 

 が、しかし、もし、彼女が、何も知らずに、ただ、国家組織に利用されている一般市民だとしたら、こんな恐ろしいことはないと思ったダ。

 

 パクは、労働党庁舎の一室で聞いた、首領様の声が、耳から離れなかったダ。

 

 「・・・キミの仲間が捕まって、殺されたりしても、当局は一切関与しない」

 

 

 ミシェルは駐車場に停めていた1台のオリーブ色の車の前で立ち止まったダ。

 

ミシェル「ニッサンのピックアップ。あなた、運転は?」

 

 パクは首を振ったダ。

 

ミシェル「OK。運転させる気もないけど」

 

 北朝鮮では見たことのない車だったダ。『ニッサン』が、日本の車であることも、このときはまだわからなかったダ。

 

ミシェル「乗って」

 

 パクはあたりまえのように右側の助手席のドアを開けようとしたら、「違う!」とミシェルに一喝されたダ。

 

ミシェル「悪いけど、後ろの席に乗って。理由は聞かないで」

 

 荷台に乗せられたパクは、自分がまるで出荷される牛になったようなキモチになったダ。

 

 空港から車で30分、たどり着いた先は、LA北部のノースブロードウェイという通りの一角にある、中華料理店だったダ。

 

ミシェル「ここが、わたしの家よ」

 

 ミシェルに案内され、店内に入ると、ミシェルの両親、つまり自分の義父母になる人がニコヤカに出むかえてくれたダ。

 

ミシェルのパパ「やあ、ようこそ!キミがリィドゥか!親父とあんまり似てないな!」

ミシェルのママ「逆に、良かったじゃない。男前で!」

 

 パクはテレながら、まんざらでもない顔をして、「はじめまして、ルゥです、ルゥリィドゥです」と、中国語で挨拶すると、ミシェルのパパは、眼光を鋭くして、こう言ったダ。

 

パパ「早速だが、キミの腕前を見せてもらおう。ミシェルのフィアンセに相応しいオトコか、この目で確かめさせてもらう」

ママ「お父さんも立派な料理人だったけど、あなたはソレ以上だって、ジョンは、とても褒めていたわ」

パク「ジョン?」

 

 呆気にとられているパクはパパに中華鍋を持たされて、ママにはエプロンをつけてもらったダ。何故か、彼は中国の一流店で修行した将来有望なシェフ、ということになっているらしかったダ。