わたしは過去を全力で否定したいすべてを否定したい。

自分の過去の判断に自信を持って、自分でいることに自信を持って、
キラキラしている。
そういう人間になりたかった。
尊敬される人になるのは容易な事ではない。

欲望をコントロールすることは容易ではない。
真面目に勉強したり振る舞いに気を付けたり。

しかしそれは、
あとから身につけさせることができるし、逆に言えば欲望をコントロールさえできれば、虚像である自分を演じればいい。
人から尊敬され、認められる喜びをエネルギーにできる。

でも同様に、もともと持ってるありのままの自分という素材をどうやって出していくかも難しいことじゃないだろうか。

自分に素直でいるという事は当然ときに周りからの反感を買うことになる。

でも、自分でいることに自信を持って
周りに逆らっても自分を持ち続けることは
容易なことではない。


全部の時間ねてる人はなんで学校に来てるんだろう。

友達とか学校の雰囲気が好きなのかな。

わたしは、授業は受けたいけど
学校には来たくないのに。
よくよく考えてみたらわたしがとてもこわがっている世界はとてもちいさいもので、

いくらでも抜け出せる。
人が私を裏切るからわたしも裏切る。

誰も私を悪いなんて言えないよね。私も言わないからね。
そういうことを言ってはダメという人は、
美しい道を歩いてきたに違いない。

それはとても誇るべきものというか、運が良く幸せなことなんだけど、

同時に残酷だということを知った方がいい。







わたしは見切るのが早いなあ。
あんな人は友達ではないと、

誰にでも、しらっとした顔で言える。
いつも一緒にいる友達がいるとする。

ある日
別にいつも一緒にいるわけじゃない子が会話に入ってきたとする。

その子は、自分が知らない親友の過去や好きな食べ物、おばあちゃんち、田舎はどこかを知ってたとする。



いつも他愛ない話をしているとき、話題にはわざわざ上がらないような個人に関するバックグラウンドや好みを知っている方が

なんかすごく
親密そうに思える。

よく考えてみたら、そこまで知っている人は少ないけど

そういう子のことはちゃんと、胸張って友達と言える。

日常会話の中で
ちゃんとお互いのプライバシーに興味が行ってこそ、相手をちゃんと知りたいって思ってこそ、

友達と言えるんじゃないかな。

同じくくりの中で自分の地位を守るために周囲にとりあえず置いておく人たちの事は

都合良く友達なんていい方をしてはいけないんだ。
第一印象がいいひとのほうが実際あとで、最低な人とか嫌いなタイプだったり

第一印象最悪な人は逆に関わるにしたがっていい人に位置が変わったり

見た目からして礼儀正しくて育ちよさそうな子が意外と常識なかったり

世の中わからないものなんだ。