しかし、この宿の料理ですが、大皿がところ狭しとテーブルに敷きつめられ、その一つひとつが山のように盛り付けられています。一番目につくのはぜんまいと油揚げの煮物、それからキノコの和え物、湯葉揚げ、タケノコ、秋刀魚の塩焼き、野沢菜漬けなどがこんもりとなっていて、そのど真ん中にタライのような入れ物に枕みたいな豆腐がどんと置いてあります。また目の前には豆乳のしゃぶしゃぶ料理が据えられていて、つまりメインが豆腐ということのようです。それはそうでしょう。ここはもともと豆腐屋さんなのですから。なんでも先代も当代もスキーの指導者だったそうで、地元スキー大会の参加者を受け入れたことが宿を営む始まりとのこと。だから料理の量もハンパないのです。

 

そしてそれは朝も同様であり、どこかの旅館の小綺麗な御膳など吹っ飛んでいきます。やはり大皿に山盛りになっていて、私などあまりの美味しさについつい食べ過ぎちゃうのですが、これからハーフマラソンを走ろうというのですから、そのくらいがちょうどいいのではないかと勝手な理由をつけたらふく満腹なのでございます。もっとも我がライバルはといえば、朝5時半に起床し準備万端なるもなぜか朝食を食べないようで、ゼリー食を吸っておしまいだそうです。なんでもハーフマラソンぐらいじゃ空腹でも全然問題ないようで、レース中すら水分補給は必要ないと豪語していらっしゃいます。そうやってもう何十年も走ってきたとのことですが、それはいくらなんでもマズイのでは?まあそんなこと私なんぞが言わなくとも、しっかり先代から「水分取らないとダメだって。ホント言うこと聞かないんだから」と窘められていましたが、よくよく聞くとふたりの関係はもう50年来となり、つまりは当時のバリバリのスキー選手とその先生といったところのようです。

 

さて、スタート時間は午前8時半でございます。宿から歩いて10分で行けるので、午前7時半には荷物をまとめて出発するのですが、宿主が改めて私にこう言います。「〇〇さんのゼッケンナンバー教えてください。ゴールで待ってますから、いっしょに帰りましょう。お風呂でゆっくり汗を流してみんなで蕎麦を食べましょう」なんと至れり尽くせりでしょうか。なにせここは温泉地でございまして、もちろんこの宿も源泉掛け流しでございます。硫黄成分たっぷりの少々熱めの泉がマラソンで疲弊した我が身を癒してくれるのです。誠にありがたいことでございます。私はいってきますと挨拶して、宿主もこれにいってらっしゃいと答えます。

 

スタート地点までの道中は我がライバルが案内してくれます。彼は「〇〇さんここは初めてでしたね。せっかくですから歩いて回れる観光地を紹介しましょう」とあれやこれやと説明し、これにへえ~とかほお~とか答えて適当なところで質問しているとあっという間に目的地に到着します。会場はもう既に選手やその家族、友人など多くの人々が集まり、地元中学校鼓笛隊やダンスチームなどのアトラクションでお祭り騒ぎとなっています。この雰囲気がたまらないんですよね。なんてったってこのお祭りの主役は我々なのですから。こんなにも多くの人々がひとえに我々のために歌ったり、踊ったりしてくれるのですからホント高揚感ハンパないんです。

 

スタートとゴールの場所は、単純に21.0975km離れています。つまりスタート地点である温泉地からずっと下っていったところがゴールとなるので、ここで荷物を預けなければなりません。ふたりでその手続きをしたあと、ライバルはトイレに行くと言ったきりそれで私とは離ればなれになってしまいます。なにせもうたくさんの人だかりなので、それに紛れて双方分からなくなってしまったという体にするのでしょう。もっとも私の方も仲良く走ろうなんてこれっぽっちも思っちゃいないので、ここらで別れたほうがいいのです。