『どうする家康』第26回の冒頭で、初めて月代に剃刀を入れる徳川家康(松本潤)の姿を思い返すと、今でも鳥肌が立つ。


そこにいたのは、絶対君主としての冷たさと、侍としての厳しさと、そしてカリスマとしての匂い立つような色気を兼ね備えた、家康第2形態であった。

 ちょうど第40回の放送で、瀬名(有村架純)の死に際して鼻水を流して泣き叫んでいた姿はどこにもなく。「ブ~ン♪」とか言って馬の人形を飛ばして遊んでいた「泣き虫・弱虫・鼻水たれ」でお腹の弱い甘ったれが、なぜここまでの変貌を遂げたのか。

それは、月代を剃ったからだ。

月代と書いて、「覚悟」と読む。月代とは、元々戦場で兜を被った時に、頭を蒸らさないための処置である。月代を剃るということは、戦場で生きる=修羅の道を選ぶ、ということだ。任侠道における、刺青のようなものだ。

これを言っては身も蓋もないが、現代の美的感覚に照らし合わせて見ると、月代を剃った丁髷という髪型は相当に珍妙な髪型である。筆者は時代劇が大好きだが、月代に関してだけは「今の感覚で見てはいけない。この時代はこれがカッコよかったんだこれがカッコよかったんだこれがカッ……」と自らに暗示をかけながら観ている。

この『どうする家康』においては、放送開始当初はみんな月代を剃らない総髪であった。主人公の松本潤をはじめとして、岡田准一、山田裕貴、板垣李光人ら、男前が多く出演しているこのドラマ、全員総髪で通すつもりかと、内心ホッとしていた。

 だが、せっかく安心して総髪男前な登場人物たちを眺めていた筆者の心の平穏を、ぶち壊す輩が現れた。“戦国の風雲児”織田信長(岡田准一)である。

いち早く洋装を取り入れ、流行には敏感な彼のことだ。当時月代という髪型は、流行の最先端だったと思われる。初披露時の、家康及び徳川家臣団の動揺した顔が印象的だった。(その当時の)都会的センスに、三河の田舎者たちはついて来れなかったのであろう。

 その後定着していく月代だが、やはり出始めの頃は相当パンキッシュな髪型だったと思われる。そのパンク具合が、信長の“狂気性”をさらに際立たせて見せた。

 怖い怖い信長様だが、総髪の頃は一抹の若さや青さが残っていた。しかし月代を剃ることで一切の甘さは消え、この時から“第六天魔王”への道を歩み出したのだと思われる。

この回で信長は、家康に家臣となることを迫る。「さあ! さあ!! さあ!!! どうする家康!!!!」(タイトル回収)の際の恐ろしさは、総髪では出せなかった。

 そして先述の通り、瀬名の死をきっかけに、家康も月代を剃る。

 ここでまたぶっちゃけてしまうが、筆者は今まで時代劇に出ている二枚目俳優を、「月代を剃っている“のに”カッコいい」という目で見ていた。あくまで月代を“マイナスポイント”として認識し、そのマイナスポイントを“補って余りあるカッコよさ”という観点で見ていた。

 だが、そんな筆者の甘い考えを、松潤・家康は綺麗にひっくり返してくれた。

 松潤・家康は、筆者が初めて見る「月代を剃ってからの“方が”カッコいい」という存在だった。

元々、非の打ち所がないほどの美形だが、だからこそ総髪時代は甘さが目立っていた。

だが、月代を剃ってからはどうだ。その剃り上げた額から、頭頂部から、抑えきれない色気が溢れ出している。

 この家康の初・月代回において、彼は降伏してきた武田軍家臣・岡部元信(田中美央)らの皆殺しを命じる。この岡部は、元・今川軍家臣。つまり、家康のかつての同僚のような存在である。総髪時代の家康なら、「どうすりゃええんじゃ~!」と頭を抱えるシーンだ。

だが月代・家康は、表情ひとつ変えずにかつての仲間を見捨てる。その際の底知れない冷たさに震え上がったが、その後の家康はどんどん天下人となるべく成り上がって行き、第40話では250万石の大大名になってしまっていた。

「月代を剃った方がカッコいい」松潤・家康の話をさんざんしておいてなんだが、実はこのドラマにはあと2人、「月代剃ってよかったね」という人物が登場する。

 豊臣秀吉(ムロツヨシ)と大久保忠世(小手伸也)である。

癖毛と薄毛に悩んでいたであろう2人。だが月代を剃り、毛髪問題から解放されると、途端に貫禄が出てしまった。

 月代が一般的になり出した頃、「嫌だよ……。カッコ悪い……」と思っていた若者は、やはりいたと思われる。だがこの2人に限っては、感謝していたのではないだろうか、最初に月代を剃った人に。

弱き白兎だった家康は、月代を剃り、数多の死を乗り越え、最終形態の“狸”となった。これから関ヶ原、そして大阪の陣と、最後の戦いが待っている。

 楽しみかつ恐ろしいが、見届けなければならない。