小学校時代の私と母親に言いたい。
「算数も国語もできなのだが、40年も経つと、大学の教壇に立ち、77歳なるころには東京大学工学部の教壇に立っているぞ」
小学生の頃の私。勉強が苦手だった。
体育ばかりをやってくれる先生が好きだった。
学期末には実施すべきプリント等を大量に自宅に持ち帰っていた。
そんな私を見て、母は「鮨屋職人になって、好きな鮨を食べさせて」と言っていた。
学校の授業が分からない。
そんな子供たちがいたのは確かである。
中学校に入ると下から数えたほうがいい。
それでも公立普通高校に入れる成績をとり、大学受験地を東京に選べるまでになった。
生活実感からいうと、随分仲間を追い抜いた。
大学に入ると、社会問題への関心が深まり、佐世保に帰るべきだと思いながら、大学院に籍をおき、研究者の道を選んだ。
選択を誤ったと思うことは一度や二度ではない。
両親は私が何をしているのかわからなかったに違いない。
東京で飯が食えるようになっていたことでよかった。
2000年を超して博士の学位をとり、大学教員暮らしが始まった。
私学でも早慶と国公立大学のお弟子さんが、
大学教員次にポジションを待っているようなものだった。
そんな中で国立大学弘前大学大学院の公募に通った。
65歳で佐世保市役所が私を迎え入れてくれたが、母が亡くなったことを契機に東京に戻った。
若いころお世話になった田村明さんと追いかけるように文献を読んだ。
それを学会のポスターセッションで説明し、別の学会で報告を行った。
そんななかで私に東大の公開講座で田村明さんの講義をしてほしいとの依頼があった。
1998年から実施されている公開講座「都市工塾」というもので、私の当番講座270回目だという。
会場には予定よりも2時間前に到着。
パワーポイントによるスライド24枚を用意した。
ズームと対面のハイブリッド方式、
対面には高齢者が多いが、大学院生が聴講してくれた。
東京大学工学部14号館の1階1401教室である。
まさか、私が東京大学で講義をするとは。
70年以上も前の私と母親にこんな現実を伝えたい。
講師料無料の宴会でのふるまい酒。
終了後に気持ちよく受けて、千鳥足で帰った。
自宅についたのは2月16日も回ろうかとする頃だった。
人生にはこんな奇跡が起きる。