2005年春、悪性脳腫瘍が判明した母。
(グレード3から、グレード4の膠芽腫へ転化)
余命3年以内と言われながらも、18年間戦った母の奇跡の記録です。2023年他界。
久しぶりになっていまいましたが、
実母の闘病記の続きです。
2009年4月
久しぶりに元の総合病院に行きました。
当時1歳前だった私の息子を、
一時保育に預けて、
私は母に付き添いました。
この頃の母はまだしっかり歩けていて、
見た目は健康な人と変わりませんでした。
紹介状を総合受付に出し、
脳外科の受付に行きました。
私は付き添ってはいましたが、
これらのすべての事を、
母は自分で出来ました。
呼ばれるまで、1時間弱。
番号が表示され、診察室に入ると、
N医師が扉の前までいらして、
久しぶりですね。
どうぞ、お座りください。
と仰いました。
母の様子は、特に緊張する訳でもなく、
いつも通りの表情で座りました。
N医師:
てんかん専門の先生からの紹介状、
拝見しました。画像も見ましたが、
やはり大きくなっていますね。
まずは、診察していきますね。
母:
はい、お願いします。
瞳孔の状態
膝を軽く叩いた時の反応
右側が麻痺していないか
いろいろな図柄を指し示し、
物の名前を言うテストがありました。
N医師:
腫瘍が大きくなったので、
症状が出ていると予想していましたが。
今の所大きな問題はなさそうですね。
ただ、表向きは分からないような、
軽い痙攣が出ている時に、
言葉が出ないという事は、
十分あると思います。
これからの予定ですが、
まずはMRIをこちらの病院でも
撮りましょう。予約は・・・
再来週の水曜日で、どうでしょうか?
母:
はい、大丈夫です。
N医師:
同じ日に血液検査と、脳波の検査も
しておきたいのですが、どうですか?
MRIの結果は、その日のうちに
お話出来ると思います。
母:
特に予定はないので大丈夫です。
という事で、検査日程が組まれました。
受診が終わり、会計・処方箋を受け取り、
帰宅しました。その後私は、
息子を保育園にお迎えに。
家に着くと、
「BBAのせいで寂しい思いをさせてごめんね。」
と言って孫を抱っこしていました。
当時の記録を見ると、
母は、まだしっかり話せていたんだな、
と、少し切なくなりました