2005年春、悪性脳腫瘍(グレード3から、後にグレード4の膠芽腫へ転化)が判明した母。

余命3年以内と言われながらも、18年間戦った母の、奇跡の日々の記録です。

イベントバナー

 

2005年3月下旬。

 

「yukiさん、○○病院からお電話です。」

 

職場にかかってきた私あての電話を、

後輩が取り次いでくれました。

 

電話口に出ると、

 

 

「K総合病院のNと申します。

突然電話してしまい申し訳ありません。

○○陽子さん(母)の娘さんですか?」

 

一瞬、母がどこかで倒れたか、

事故にでも遭ったのかと思い、

ドキッとしました。

 

N先生は続けて、

 

「お母様が今日当院を受診されまして、

症状から判断し急遽CTを取ったところ、

脳腫瘍と思われる影が写りました。

これから造影剤を使ったMRI検査を

行おうと思っていますが、お母様は、

大変ショックを受けられてまして。

もし可能なら、これからお越し頂ければ、

大変ありがたいのですが、どうでしょうか。」

 

と仰いました。

 

この時点で、終業2時間前。

大方の仕事は片付いていたので、

 

「これから伺う方向で上司に話します。

何時頃に着けるか、改めてご連絡します。」

 

と答え、上司に相談しました。

 

上司は、

「それは大変ですね。

仕事なんて切り上げていいから、

すぐに向かってさしあげて。」

 

と即答でした。

 

良い職場だったなぁ、と思います。

 

病院に電話し、向かう旨を伝え、

職場を後にしました。

 

 

職場は隣県なのですが、

高速を使えば2時間以内です。

 

 

当時、車を持っていなかった私。

 

同じ市内に住んでいた、

兄(大学院生)に電話しました。

 

兄はたまたまワンコールで電話に出て、

事情を聞いて、すぐに研究室を飛び出し、

私の職場の最寄り駅に来てくれました。

 

それから、すぐに病院へ。

 

 

事前に聞いていた脳外科外来に行くと、

 

すぐに看護師さんに案内され、母の元へ。

 

 

母は、処置室のベッドにいました。

 

傍には、叔母がいてくれました!

叔母もちょうど着いたところだと。

 

大好きな叔母の存在に、

なんだかホッとしたのを覚えています。

 

母は、病院の公衆電話から、

車で30分の所に住む叔母(母の姉)

に、自分で電話したそうです。

 

叔母にお礼を言い、

母の横に行き手を握ると、

 

母は、

 

「ごめんね、仕事中に。

お母さん大変な病気になっちゃった。」

 

と消え入るような声で言いました。

 

 

ほどなく別の看護師さんがいらして、

 

 

看護師さん:

「息子さんと娘さんですよね?

先生からお話があるので、

診察室までお願いできますか?」

 

 

叔母:

「私は陽子(母)の傍にいるから大丈夫。

二人で聞いてきて。」

 

との事だったので、叔母に母を託し、

診察室へ向かいました。

 

 

診察室に入ると、柔和な雰囲気のN先生が、

椅子から立ち上り、

 

「お忙しいところ、ありがとうございます。

息子さんにもお越し頂き、大変助かります。」

 

と挨拶してくださいました。

 

母は、先生から家族の連絡先を聞かれた際、

うまく答えられなかったようで、

たまたま手帳に挟んであった私の職場の

電話番号をN先生に伝えたそうです。

 

 

モニターには、CTの画像が映し出されていました。

 

そこには、素人にもわかるくらい、

しっかりと黒い影がありました。

 

 

N先生:

「これが最初に撮ったCT画像です。

黒い部分が脳の腫れです。次に、

腫れの中に何があるのかを見るために、

造影剤を使ったMRIを撮りました。

すると、ここなんですが。

腫瘍が確認できました。」

 

MRI画像には、より鮮明に、

周りが不明瞭でいびつな腫瘍が、

はっきりと白く写っていました。

腫瘍の最大径は約3センチ

 

N先生:

「詳しくは、組織を調べないと判りませんが、

私の経験上、おそらく神経膠腫だと思われます。

グリオーマと呼ばれるものです。」

 

と、紙に書きながら説明して下さいました。

 

「グレードによって良性から悪性までありますが、

周囲の脳に浸潤している様子から見ると、

悪性の可能性が高いと思われます。」

 

 

また、胸部のレントゲン写真の説明もありました。

 

「肺がん」は脳に転移しやすいので、

転移性か原発性かの確認のために、

胸部レントゲンを撮ったとの事です。

結果、肺がんは無く、

原発性の脳腫瘍と判断できるそうです。

 

 

N先生は、今後の流れについて、

 

・手術により組織を採って、グレードを確定。

・良性(可能性は低いが)であれば、

出来るだけ切除し経過を見る。

・悪性であれば、放射線治療と化学療法を

組み合わせた治療が一般的。

 

と、説明してくださいました。

 

何か質問はありますか?

との事だったので、

 

 

私:

「完治は見込めますか?

また、完治が難しい場合の予後は、

どうなるのでしょうか。」

 

 

N先生:

まだ病理診断前なので、

あくまでも一般的な見解ですが、

良性であれば完治とはいかなくても、

通常の生活は送れると思います。

 

悪性のグレード3であれば、

生存中央値は1.5年で、

3年生存は厳しいのが現状です。

 

グレード4だとさらに厳しく、

数か月単位となります。

(※2005年当時の見解)

ただ、個人差はありますし、

まずは検査で確定しましょう。」

 

 

兄も私も、先生の説明にショックを受け、

言葉も出ませんでした。

 

 

まずは今日は母を家に連れて帰ろう。

早く母の元に行きたい。

 

そう思いました。

 

今後の検査の日程が急ぎで組まれ、

翌週また受診する事になりました。

 

 

※この病院は、大学病院とも連携している、

がん治療をはじめ、様々な重い病気や怪我・

3次救急医療をも担う基幹病院です。

現在では、紹介状を持っての受診が基本ですが、

当時はまだ緩く、当日の受診が可能でした。

 

 

実家に着くと、

玄関先で、母は小さな声を出し、

ポロポロと涙を流して泣きました。

 

「大丈夫、しばらく一緒にいるよ。」

と言ったら、少しホッとしたようでした。

 

 

夫に連絡し、実家に泊まる旨、話しました。

また、こんな状況なので、

しばらくは実家から通勤したいと言うと、

「いいよ」と快諾。

 

兄は4月から、遠く離れた地への就職が

決まっていました。

母の事を気にかけながらの引っ越し準備は、

とても大変だったと思います。

その合間を縫い、頻繁に母の顔を見に、

時には実家から研究室に通っていました。