文章で読む英語の響きは、軽く淡々としていて、日本語の響きは、抑揚に富み情緒深く聞こえる、というお話を昨日はしました。

 その理由は、もともとの言語の違いということがひとつと、我々が、日本語ほどには、英語に習熟してないということがひとつ。

 なるべく、おわかりになりやすいように、書いたつもりですが、うまくお伝えできてればいいなと、思います。

 今回は、それが、これら二冊の読後感に、どんな影響を与えているかに、触れたいと思います。

 つまり、ここまで四回分の記事の、クライマックスです。

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 ネタバレはしたくないので、あらすじでは、この作品のラストについては、触れませんでした。

 触れないまま、書き続けられるのか、ちょっと不安ですが、やってみましょう。

 ラストでは、見事に意表を突いた、すごく感動的なことが、起こります。

 僕は、先に原書を読んだので、かなりの衝撃を受けて、仕事中だと言うのに、涙ぐんでしまいました。

 悲しみの涙ではなく、深く心を動かされての涙です。

 ああ、この絵本は、このラストのために、ここまで書かれてきたんだと、深く深く、納得しました。

 それほど、すばらしいラストでした。

 ところで、先ほど、「僕は、先に原書を読んだので」と書きました。

 実は、先に原書を読んだ方が、この作品から来る感動は、大きくなるように、思えるのです。

 その理由を、お話ししましょう。

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 昨日からお話ししてるように、文章で読む英語の響きは、少なくとも多くの日本人にとって、日本語より、軽くて淡々としています。

 もともと明るい、主人公リディアの手紙は、日本語で読んでも、とても前向きで、元気いっぱいです。

 でも、原書で読むと、英語の淡々とした軽さも相まって、彼女の明るさが、より際立っているように、感じられます。

 そして、ラストは、ずっしりした重みを持つ、とても心揺さぶられるものです。

 つまり、それまで軽く明るかった語り口が、最後でいきなり、強く豊かな情緒へと、突っ込んで行くことになります。

 まるで、高い崖の上から、深い海に、一気に飛び込むように。

 それまでが、軽く明るかった分、ラストとの落差が、とても大きくなる、ということです。

 先ほど「主人公リディアの手紙は、日本語で読んでも、とても前向きで、元気いっぱい」と、書きました。

 それは、嘘ではないのですが、英文と比べると、リディアの感情が、わかりすぎてしまう、という欠点があります。

 わかりすぎてしまう、のが、欠点とは、変な言い方です。

 でも、リディアの感情がわかりすぎると、彼女の持つ、淡々とした明るさに、ちょっと、水を差されたような気がするのです。

 感情というのは、多かれ少なかれ、ウェットな面を持ってます。

 そのウェットなところが、物語の描く明るさを、押し下げてしまい、結果的に、ラストとの落差を、小さくしてしまうのです。

 それまでの語り口と、ラストとの落差が、日本語で読むよりも、英語で読む方が、大きく感じられる。

 それが、原書の読後感が、翻訳の読後感より、強烈な理由のように思われます。

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 あるいは、それは、ウェットな感情の仕業ではなく、日本語にこもる、言霊のようなもののせいかも知れません。

 我々は、日本語に充分習熟しているので、文字面以上の多くのものを、文章から受け取っています。

 ここで言う、言霊とは、そういうものを指しています。

 いずれにせよ、この二冊を、原書から先にお読みになってみて下さい。

 そうすれば、僕が申し上げていることが、おわかりいただける気がします。

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 実は、ここに、重要な視点をもうひとつ加えると、より説得力ある文章に、できたかも知れません。

 でも、その視点を加えることは、すなわち、ネタバレになるということなので、禁じ手としておきます。

 未読の方は、ご自分の目で、お確かめいただけるといいと思います。

 次回は、まとめです。