今回の記事に入る前に、まず昨日の記事に間違いがあったので、お詫びして訂正いたします。
リディアが、屋上の花園におじさんを招待したのは、おじさんの誕生日ではありませんでした。
これは、僕の記憶違いでした。
すみません。
昨日、確認のために本を読み直して、そのことに気づきました。
昨日の記事を書き直してもよかったんですけど、ずるしてるみたいなので、そのままにしました。
今後は、先に確認してから、記事を書くようにします。
---
さて、今日はいよいよ、翻訳と原書の違いについて触れます。
この本は、リディアが、おうちにいるときは都会にいるジムおじさんに宛てて、親元を離れてからはママ、パパ、おばあちゃんに宛てて書いた、手紙文で構成されています。
翻訳、原書に共通してるのは、おそらくリディアが、才気煥発な女の子であろうということです。
表現は、彼女の豊かな感情を正確に写し取っていますし、だから何しろ言葉が生き生きしています。
でも、両方読み比べると、微妙な差があることに気づかされるのです。
それは、原書の英文の方が、どことなく乾いて、淡々とした語り口に感じられること。
たとえば、こんな風です。
"I'm small, but strong, and I'll help you all I can. However, Grandma said to finish my schoolwork before doing anything else."
これに対する翻訳はこうです。
「私は小さいけど、じょうぶです。なんでもお手伝いします。おばあちゃんには、なにをするにもまず宿題をすませてから、といわれてますけど。」
僕などが言えた義理ではありませんが、翻訳は完璧で、意味はまったくこの通りですし、言い回しもとてもスムーズだと思います。
でも、問題は意味ではないんです。
これを黙読したとき聞こえてくる声に、耳を澄ませてみて下さい。
前者の方が後者より、聞こえてくる声が、平板なものに感じられませんか?
言い換えると、日本語は、情感たっぷりな声に聞こえますが、英語は、読み方に感情を込めるのが、難しそうに思われませんか?
この二冊を読んで、そうした日本語と英語の差に、初めて気づきました。
それは、一体どういうことなのか、詳しくは、次回に続きます。