このまえ、どっかのお友達と一緒に登山に行ったんですね。いや、登山と言っても、180mくらいで、阪急岡本駅から歩いて30分でつくような、ビギナー級登山みたいな、てか、ほぼ散歩みたいな登山だったんですけど、とにかくまあ、登りまして、で、降りるじゃないですか。あ、保久良山と言うんですよね。で、なんかすごそうな由来もあり、灘の一つ火とかいうありがたそうなものもあり、そして30分歩いただけで得られる景色としては極上の物が見られる。すぐ近くには神戸の都会、遠くには青いチヌの海、また海の先には大阪の山、更に保久良山には神社あり、梅林ありと、まじでコスパ最強の景勝地だとおもうので、ぜひ皆さんに登ってもらいたいんですけど、本題はこれではありません。あ、そういえばチヌの海っていうのは、大阪湾のことらしいんですけど、なんか昔言ってた地元の小学校の校歌にも茅渟の海とかいう歌詞ありましたね、いまさらながら、なるほど郷土愛あふれる歌詞だなあと、今更感心したのでありますが、このことは本題とほんの少し関係があります。

 

どぇ、本題というのは帰属意識のことなんですが、もう少しまえがきを続けさせてください。登山が終わったあとは、小学校の校門前で不審者をやったり、駅前のカフェでみんはやをやったりと、微妙に楽しみきれてない午後を過ごしたんですが、そのあと連れが梅田で本を買うと言い出したんですね、なので私もついていきまして、買う本を悩みに悩んだあげく、倫理用語集一冊だけ買うという、これまた楽しみきれてない買い物をしたんですが、ここで疑問が湧くわけです。なんで倫理用語集やねん。

 

実はこれは割と単純で、我が学年は受験学年だったわけですが、コロナの影響で自主ゼミとかいう意識の高そうなグループができまして、まあそれぞれ勉強会とか、得意分野の講義とかを、おのおのやったり参加したわけですが、そのなかに倫理を勉強するものがあったんですね。それで別に倫理を選択したわけではないのですが、暇だったのでグルに入りまして、まあ勉強会の様子を見たり、通話に入りながらツイッターをみていたりしていたわけですが、そのうち倫理を勉強したくなってきたんですね、おもしろそうだ。でも私も受験生ですから、世界史や理科基礎、英語でいっぱいいっぱいなので、受験終わったらかじってみようかなーって思ってたわけです。そこに梅田ジュンクなので、もう買うと決めてしまったわけですね、倫理用語集ならとりあえず網羅的にかじれるやろ。

 

そんなわけで、倫理用語集を入手して、まあ順番に読んでいくじゃないですか。すると面白いことに第一章が青年期の課題というんですね、青年期だけで1章分使うのか、おもろいなあと思いながら読み進めたんですが、よく考えたら高校生って青年期か、学習者にピンポイントに当ててきているんやなと、はえー賢い、などと納得したりもしました。で、項目ごとになるほどおと、例えば,おとなになるまでの準備期間としての青年期の概念だとか、通過儀礼だとか、ライフサイクルの話だとかで、割と目からウロコな話が多く、おもろいなあと読んでたんです、で、そこに、アイデンティティの危機(拡散)という項目がある。で、よむ。

 

「自分が何者かわからなくなり、自分が生きている実感が感じられない心理的な混乱状態。青年期は子供としての自分を一旦解体し、大人としての新しい自分へと自己を転換する過渡期なので、子供としての自分にも満足できず、また新しい自分にふさわしい行動の仕方や場所も見つからない宙ぶらりの中途半端な状態に陥りやすく、自分のアイデンティティが実感できずに現実感を失い、不安や空虚感にとらわれることがある。」

 

…これ俺やん。

 

感じますねえ、アイデンティティの危機。本題がやってまいりました。そうなんです。最近少し、自分が何者であるか、と言うか、どのように生きようかと言うことに関して、やたらと考えるんですよね。ひどい時には、家の中にいても、ここにいたくない、どこかに連れ出して欲しい、ここは自分のいるべき所ではないと言うように思い詰めることもあるんです。で、思索が割と続くと色んな話題に飛んだりするのですが、だいたい特定の話題になるわけです。それを良い機会なので纏めてみようというわけですが、どの話から始めるといいかわからんから、とりあえず話題をまず箇条書きにしましょう。これそれぞれの話題は相互にかぶったり、関連するので、まあ、だいたいね。てか、あんままとまった考えでもないし。

 

・自分のルーツの話。台湾、中国語。

・生活のコミュニティの話。ABCD共同体。現代社会、階級、分断と個人化

・将来のライフスタイル。仕事、人生の段階と、幸福

 

で、こんなことを考えるようになったのも、多分ここ1年位のことなんですね、これはなんでかなあ、と考えると、思い当たるのはやはり受験学年になったということ、そしてそれにコロナがかぶったことでしょうかね、これで否が応でも将来や人生のことを考えなければならなくなった。

 

・自分のルーツの話。

 

最近の傾向として、やたらと台湾や中国語に親近感を覚えるといいますか、それに関わることに関心を持つようになってきたんですよね。

その兆しはだいぶ前からあったようですが、(例えば2019夏の台南帰省のときには、あまりの喋れなさに情けなくなり、来年こそは喋れるようになろう、と決意した記憶がある、なお)おおきな画期は昨年9月ころに中国語の歌を聴き漁るようになったことかと思われます。

なんで聞くようになったのかは、今となってはもう覚えてないのですが、あのころは鄧紫棋,hebe Tian,EggPlantEggを聞くようになってました。そうだ思い出した。youtubeで、中国語の歌の、再生回数が多いものをかき集めたプレイリストを脳死で流して、とりあえず開拓していたんだった。それでなぜかこれ聞いたことある!っていうのが多くて面白かったんです。これはだいたい母親が車の運転中に流していたからなんですね。だから、曲名はわからないし読めないけど、メロディは知っている、という現象がしばしば起きて、ちょっと感動しました。

 

そんなこんなで、中国語の歌を聞き始めたんですが、そのうち特定の好きな歌をくり返し聞くようになって、開拓が進まなくなったんですね。で、台湾語のうたとかも中国語とは違った味が出ていて、面白そうだったので、台湾語のPOPsはないのかと母親に聞いたところ、「動力火車」とかえってきたんですね、いまおもえば、このバンドは台湾語の歌があまり多くなかったので、母の思い違いだったのですが、とにかくyoutubeで「動力火車」と調べて、目に入った歌を聞き始めるじゃないですか。それが「忠孝東路走九遍」というものなんですが、なんとこれが、大昔に聞いたことのある、記憶の奥底に眠るといった、いわゆる懐かしの歌だったんですね。さらにこのバンドの歌声が結構特別で、というのは台湾の原住民であるパイワン族特有の高音が魅力的で、ハマってしまいました。このバンドのこともいくらでも語れるんですが、本題からそれてしまうのでこのへんで。

 

そんなわけで、僕は受験勉強の傍ら「動力火車」を聴き漁ったり、最近は中国ドラマ(還珠格格がめっちゃおもしろい!)にも手を出してしまったりと、趣味が中国語化してしまい、インスタグラムのフォローも中国、台湾の芸能人で埋め尽くされるし、シャワーを浴びるときは中国語の歌を歌い始めるしで、これが本当のシノワズリかwなどとつぶやいたりしてるのですが、こういったことも通して、ますます台湾への帰属意識が強くなっているように思うんですね。というのは、日本のポップスも、日本のドラマや女優とかも、全く興味を持てないのに、台湾、中国というだけで、そういったことに抵抗が全くなくなる、というのは、台湾というものへの関心がその壁を取り払っているというように思えるのです。この関心がどこから来るのか、というと、まさに自分のルーツなんですね。これは、「動力火車」の歌が、台湾人の母親がよく聞いていたのが原因で、懐かしの歌として記憶されている形で、アイデンティティの一部にもなっているということからも伺えます。

 

で、すこし自分のルーツの話をしますと、自分の母親は台湾の台南市出身で、台湾に留学していた日本人の父親と結婚して日本に来て、私を生んでくださったのですが、とうの私は、生活のほぼ全てにおいて日本語で話し、日本人として生活し、年に一回、長いときでも1ヶ月台湾に帰省するときだけ、台湾をおもいだすというような、それも半ば旅行気分で台湾の実家に居候するという態度だったんです。母親によれば、小学校低学年くらいのときまでは中国語は話せたが、それ以降はもう話せなくなった、とか、幼稚園のときに、肝心の日本語が話せずに園で浮いていたため、家庭内で日本語をメインに使うようにした、とか言うことらしく、今思えばなにやら自分の中では成長につれて日本人化していった感じかあり、少しもったいないなと思ったりします。いや日本に住む以上当然なんですけど。今の自分は、もはや中国語はほとんど話せず、発音もめちゃくちゃ、書くことなんてもってのほか、特定の単語をかろうじて識別できる程度という有様で、そのくせ中国語の歌とかは好きで、自分は台湾人ですアピールをまわりにしてまわるといった自分の状態をみると、どうも偽物というか、言い方はおかしいけど真の台湾人ではないな、という感じもするんです。そこが今は何やらもどかしい。

 

また、これは今年からのコロナウイルス流行に関わることなんですが、日本が水際対策も失敗し、欧米よりマシとはいえ、グダグダやっている、さらにコロナであぶり出されたいわゆる日本社会の負の面を感じるのにたいし、日本とは対照的に、台湾がほぼ完璧な対策を行い、例えばテレビ番組で芸能人たちが至近距離でスポーツ大会をする、といった光景を見たりすると、一家の中でも「台湾に帰るか!w」的な会話が、冗談でなされるのですが、おそらくみんな心のなかでは本気で帰りたがっていると思うし、自分もそうなんですね。ようは台湾が羨ましい、住みたい、と思う。

 

さらに言えば、これは3つ目の人生の話題と関連しますが、このような日本の状況を考えたり、また受験勉強に伴って、将来を考えたりすると、どうも日本で職について、日本で一生を終えることに抵抗を覚え、日本を脱出して、台湾に移住してそこらへんの夜市の屋台で生計を立てたりしながら生きていけたらいいなあと考えたり、とにかく中国語で生活したいと思ったり(中国語って、めちゃめちゃキレイやと思うんですよ!)、台湾の中央山脈の原住民に生まれて、山の中を走り回りながら、「動力火車」のような特別な高音で歌うというような子供時代を過ごしたかったとさえ思ったりするわけです。中国語も話せないし、何も技能もないけれど。

 

しかしながら、自分の中で台湾という場所を理想化しているような節もあるんですね。これは初めに挙げた3つの話題に通底するかもしれないことがあるのですが、とにかく現状が不満である、ということがこういった自分の精神状態や思考の源であるような気もするのです。つまり、今住んでいる日本という場所、日本での生活、日本の状態(コロナとか、労働状況、日本社会、政治、、、)がどうも嫌だな、という思いが、台湾への羨望を作り出しているような気もするんです。例えば、「動力火車」は台湾原住民なんですが、こういったことから、原住民と漢民族の共生社会ができている、といったり、多文化共生ができている素晴らしい社会である、というように台湾に住んでるわけでもないのに誇りに思うということもあるのですが、よく考えたら、これはあまりにも都合の良い解釈ではないのか、と疑問に思うこともあるんです。というのは、たしかに、民主化以降の台湾では原住民の権利運動が実を結んできており、今では十数族の原住民が公式に保護されていますが、依然として、経済的には苦しかったり、社会的地位が弱い傾向にもあることは十分に察せられますし、原住民に対する誤解や差別というものも、やはり存在するかもしれません。それなのに、台湾に住んでるわけでもなく、何も知らない、いわば外野の自分が勝手に多民族共生を称賛するのも、愚かなことなようにも思えます。これは、原住民の話だけでなく、ジェンダー平等指数や、民主政治など(民主化運動という歴史的経緯があると、民主主義は成熟するという勝手なイメージが自分にはある)、日本よりも優れているとされる話題においてもそうで、たとえば出生率の低下とか、そういった負の側面に自覚的ではないのでないかという、自分自身への疑いも確かに存在するのです。

 

 

ですから、自分の最近強くなってきた台湾人意識というものも、中国語すら話せない、日本人として生きてきた人の不完全なものだという点、そして、この意識自身が、実は虚構が入っているかもしれない、実像から離れた、まやかしのものかもしれないという点を考えると、どうもこれをアイデンティティとして、確立できない、というのが今の問題というわけです。これからの自分の課題は、いかに「自分の中の台湾」をより実像に近づけ、本当に台湾にルーツのある人としてのより良い生き方、態度を取ることができるかということになるでしょう。そのためにも、できるだけ早く中国語を習得し、台湾理解を深めなければならない、と今一度思うわけです。