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■2011 3.11 笑顔の訳
●序
2011年3月11日の東北大震災は全ての日本人及び世界中の人々に未曽有の天災と人災の恐怖を与えた。
しかし、この未曾有の災害は世界に日本人を再認識させる機会にもなった。

震災直後、報道された被災者の冷静な行動や笑顔に対して世界中から「なぜ?」との声が沢山寄せられた。
私たち日本人から見るとその世界中から寄せられた「なぜ?」という疑問に明確に答えることが出来なかった。それは一言で言ってしまうと「日本人だから。」としかあの時は説明できなかった。
今、被災一周年を迎えるにあたり、日本人を考えてみた。


●日本人とは
日本人とは太古の昔まだ大陸と繋がっていた頃に先住していた民族と狩などで獲物を追いかけてたどり着き定住した人々(縄文人)と、島国となった後、大陸から戦いに敗れたり、追い詰められ逃避してきた渡来系の民族との戦いや和合の繰り返しを経て、弥生人として日本に定着した民族である。

残念ながら新天地を求めて海を渡り開拓者魂を持った先祖ではない。


大陸からは倭国(野蛮な国)と呼ばれ、大陸との摩擦を避け、交渉や交流を重ねて、自らも倭国と称して蔑まれながらも混沌とした時代を経て大和朝廷を確立して、国号を701年に日本とした。

元々大陸の文明にご機嫌を伺いつつ蔑まされて、それでも大陸からの文化や技術を貪欲に学び取り、いいところ盗りをして自分の国の独自の文化・美意識として磨き上げてきたのが日本人だ。

このとき身に付けたいいところ盗りが「漉き取る」という考え方だ。

●神の存在と美的理念
そして、古代より森羅万象の様々な影響により生死を覚悟しながら生きてきた日本人は全てに神が宿り、また大陸から伝わった様々な神々をも漉き取って八百万の神々を創造し、森羅万象(死・闇・災害等)全てに神々を当てはめ、否定することなく神として受け入れて恐怖に打ち勝ってきた。

世界中にも同じ神は数々あったのだが、キリスト教の出現で大方がキリスト教に統一されてしまった。
島国であった日本は巨大なキリスト教勢力から遠く離れていたためにキリスト教に統一されなかったのかもしれない。統一はされずにここでも「漉き取る」ことによってキリスト教も時間をかけて受け入れていくことになる。
ここが、他国との違いである。建国以前の畏敬の念を現在まで様々な信仰を受け入れて、漉き取って受け継いできたのが日本人だ。

これらの神々を信仰し崇拝を重ねて※「もののあはれ」という美的理念にたどり着いた。

※ 「もののあはれ」とは江戸時代後期の国学者本居宣長が、著作『紫文要領』や『源氏物語玉の小櫛』において提唱し、その頂点が『源氏物語』であると規定した美的理念である。

まず、「あはれ」という言葉は、「深く心に感じる言葉」で、後世にただ悲しいことのみ云って、「哀」という字を当てているが、「哀」はただ「あはれ」の中の一つであって、本来の「あはれ」は「哀・恐・狂・嬉・歓・喜・怒・呪・憎・悲・恋・愛等」全ての感情を言い表す。そして何事であっても、深く心に感じるあまり、思わず「あぁー」と、言葉にもならず、発せられる「嘆息の言葉」である。

つまり簡単にいえば、「もののあはれを知る」とは、「様々な事または物に触れて、その喜怒哀楽の心を我が身に受け入れて心鎮めて知ること」ということが出来る。

しかし、「もののあはれ」という美的理念は人の感情ひとつのに留まらず、世の中に存在する全ての万物事に人があはれの感情を持つ以前に元々万物事に備り存在しているものと国学者本居宣長は言っている。

人が、ありのままに知るのは、物の心、事の心であり、それらを明らかに知って、その事をあるがままに感じられるものが、物のあはれである。「物の心、事の心」をありのままに知るのは我が「心」であり、それは心が能動的に知るのではない。あくまで物・事の有り様に即して、その物・事を通して具現されている物・事の心を、我が心に受動的に知る。このとき心は、何か実質の詰まった実体ではなく、「空の容器」として、物・事のありのままの受容体として機能することになる。

日本人のこの美的理念はあくまでも受動態であり、日本人の遺伝子の中に、全てを認めて受け入れるという資質を受け継がせてきた。

また、大陸より伝来した仏教思想も受け止めそして漉き取って遺伝子の中に受け継がれてきた。
そのひとつが「諸行無常」であり、「輪廻転生」である。

諸行無常とは、「形あるものは必ず壊れる」、「命あるものは必ず死ぬ」、「人は死ぬために生まれてくる」という仏教思想である。

そして死の恐怖から救ってくれるのが、生まれ変わりを示唆する「輪廻転生」であり、人それぞれの生き様を戒めるために天国と地獄が創造された。

獣を追いかけ天候に左右されて必死に生きていた時代から、神々を畏れ崇拝しながら文化文明を築き上げ、「もののあはれ」という美的理念の境地を見つけ、「諸行無常」という思想で「死」を受け入れて、「輪廻転生」で次の生まれ変わりに安堵・希望を見つけてきたのが日本人である。

東北大震災はこれらの日本人の古代からの資質を深く受け継いできた東北人を襲い、叩きのめした。
しかし、東北人は現状を悲観しながらも粛々と復興を進めている。

それは幾度と無く自然や権力に叩きのめされても、力強く立ちなおしてきた東北人の歴史と、その度にそれらによって呼び起こされた日本人の古代からの資質が、東北人に脈々と受け継がれているからだ。

今、我々は東北人というお手本からしっかりと学ぶときであると確信する。


mgf0001さんのブログ
燻乾法以前

カツオ自体は古くから日本人の食用となっており、縄文時代にはすでに食べられていた形跡がある(青森県の八戸遺跡など)。5世紀頃には干しカツオが作られていたとみられるが、これらは現在の鰹節とはかなり異なったものであったようだ(記録によるといくつかの製法があったようだが、干物に近いものであったと思われる)。

宮下章氏が、『鰹節考』の中で「カツオほど古代人が貴重視したものはない。(中略)米食中心の食事が形成されて以来、カツオの煎汁だけが特に選ばれ、大豆製の発酵調味料と肩を並べていた」と述べているように、カツオが古代人にとっては最高の調味料だったといえる。

飛鳥時代(6世紀末-710年)の701年には大宝律令・賦役令により、この干しカツオなど(製法が異なる「堅魚」「煮堅魚」「堅魚煎汁」に分類されている)が献納品として指定される。うち「堅魚」は、伊豆・駿河・志摩・相模・安房・紀伊・阿波・土佐・豊後・日向から献納されることとなった。

現在の鰹節に比較的近いものが出現するのは室町時代(1338年-1573年)である。1489年のものとされる『四条流包丁書』の中に「花鰹」の文字があり、これはカツオ産品を削ったものと考えられることから、単なる干物ではない、かなりの硬さのものとなっていたことが想像できる。

燻乾法の確立

江戸時代に、紀州印南浦(現和歌山県日高郡印南町)の甚太郎という人物が燻製で魚肉中の水分を除去する燻乾法(別名焙乾法)を考案し、現在の荒節に近いものが作られるようになった。焙乾法で作られた鰹節は熊野節(くまのぶし)として人気を呼び、土佐藩は藩を挙げて熊野節の製法を導入したという。

大坂・江戸などの鰹節の消費地から遠い土佐ではカビの発生に悩まされたが、逆にカビを利用して乾燥させる方法が考案された。この改良土佐節は大坂や江戸までの長期輸送はもちろん、消費地での長期保存にも耐えることができたばかりか味もよいと評判を呼び、土佐節の全盛期を迎える。改良土佐節は燻乾法を土佐に伝えた甚太郎の故郷に教えた以外は土佐藩の秘伝とされたが、印南浦の土佐与一(とさのよいち)という人物が安永10年(1781年)に安房へ、享和元年(1801年)に伊豆へ製法を広めてしまったほか、別の人物が薩摩にも伝えてしまい、のちに土佐節・薩摩節・伊豆節が三大名産品と呼ばれるようになる。

mgf0001さんのブログ
調味料「味の素」
1908年(明治41年)、東京帝国大学教授の池田菊苗が昆布のうま味成分はグルタミン酸ナトリウムであることを発見、創業者の二代目鈴木三郎助が工業化に成功した。

開発当初は「味精」という名称であり、中国など漢字文化圏では、現在も「味精」と呼ばれている。「味の素」を商標登録した際には、石油系材料の表記を巡って、争われた。登録後は「味の素」は、日本ではうま味調味料の代名詞とされるほど普及した。

「味の素」の主な原材料はグルタミン酸ナトリウム。グルタミン酸ナトリウム(グルタミン酸ソーダ)はグルタミン酸のナトリウム塩のことで、この物質のL体が調味料として使用されている。現在ではうま味調味料(現在「アミノ酸等」と商品には表示)と呼ばれる。